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2021.06.18

第2回:金森修、非生命の神秘
──肉体の作成と魂の実装

踊るのは新しい体 / 太田充胤

3DCG、VTuber、アバター、ロボット、生命をもたないモノたちの身体運用は人類に何を問うか? 元ダンサーで医師でもある若き批評家・太田充胤が、モノたちと共に考える新しい身体論。第2回は、採血実習の経験からなる他者の「腕」への感覚と科学思想史家の金森修の思考を手がかりに、ゴーレム・人形・人間圏まで分け入ります。

 

 

正常なものとは、生物学に関しては、古い形態というよりむしろ、新しい形態──もし、それが規範的と思われる存在条件を見出すなら──である。すなわち、時代遅れでおそらくまもなく消えてなくなるようなあらゆる過去の形態を廃業することになるからだ。[1]

──ジョルジュ・カンギレム『正常と病理』

 

人形の腕、モノとしての身体

 人間の腕を人間の腕だと思わなくなるまでには、それなりに長い時間を要した。
 初めて生身の人間に針を刺したのは、たぶん22歳のときだ。医学部の採血実習で、同級生の左の腕を穿刺し、ごくわずかな量の血を採った。先に刺されたのは、彼ではなく私のほうだったかもしれない。忘れてしまった。覚えているのは恐怖だけだ。ズブの素人に針を刺されるのも怖かったが、他人の皮膚に針を刺すほうがずっと怖かった。それからも練習を繰り返し、そのたびに脇の下に嫌な汗をかいた。
 時は流れ、現場に出て、毎朝の採血当番で入院中の患者さん十数名の採血をまわるうちに、そんな感覚はすっかりどこかへ消えてしまった。限られた時間のなかで効率よく作業を終えなければいけない焦りは、その作業が生身の人間の腕を扱っていることを忘れさせた。
 1年も経つころにはずいぶん上手くなった。ごろりと横たえられた腕をとりあげ、肘窩から前腕、手背に至る皮膚の凹凸と色調をなめるように見つめ、見つけた静脈にあたりをつけて流れるように針を刺した。どんなに探しても静脈が見つからないときは、経験則でこのあたりと見当をつけ盲目的に刺した。
 一連の作業で扱うそれらの腕は、退院するときに固い握手を交わす患者さんの腕と同じ腕ではなかった。苦痛を訴えながら患者さんが差し出し、我々が手を添える腕とは同じ腕ではなかった。

 川端康成の短編に『片腕』というのがある。知り合いの娘から「片腕」を借りて自宅に持ち帰る男の話だ。
 「『片腕を一晩お貸ししてもいいわ。』と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた」[2]。読む者を唐突に幻想のなかへ突き落す、こんな書き出しで始まる短編は、その晩「片腕」が独特のやり方で男と交流するさまを描く。
 肩の丸みをおびたところから外された娘の片腕を、男はまるでやましいものであるかのように外套の内側に抱きかかえて持ち帰る。アパートについた途端、片腕がおもむろに人の言葉を話しはじめると、男もごく自然な調子でそれに応じる。片腕は男の手を握り、指を動かして男の胸をよじのぼる。男は男で、片腕の肘を曲げ伸ばししてみたり、爪のひさしに隠れた小指の先をくすぐったりと片腕を弄ぶ。電気を消して床に入ると、片腕は温かくゆっくりと脈を打つ。しかし男は最後に、そうやって親密に寄り添った相手を、まさしくモノに八つ当たりするときのやり方で衝動的にベッドに投げ捨てる。

 こうしてモノと人とを行き来する「片腕」とは、一種の人形なのだ。遺著『人形論』のなかで『片腕』をそんな風に評したのは、科学思想史家の金森修である。片腕をくすぐる男の行為は、愛撫ではなく「愛玩」という言葉で表現される。何気なく小指の先をくすぐられた片腕がぴくっと指を縮ませて反応すると、男はその腕をくまなくくすぐってみたくなる。その欲望を指して、男が自ら「愛玩」という言葉を使ったのを金森は見逃さない。この瞬間、欲望の対象は人間ではなく人形のごときモノであり、男自身にもその自覚がある。だからこそ最後には、いとも簡単に、衝動的に打ち捨てられることになる。片腕は男の世界観のなかで、ただ愛玩される存在から、人間に限りなく近い存在、そして打ち捨てられる存在へと、時間とともに複数の様態を移ろう。
 人形が人間になり、人間が人形になること。見る側の認識ひとつで、存在がそのようにスイッチすること。その感覚は、医学や科学がときに人間をモノのように対象化する構えとよく似ている。身体のモノとしての側面。モノとしての身体。人間の身体に触れる医療の手つきと、人形の哲学とが、金森の言葉の中でごく当たり前に交わりあう。その時私は、思い出すことさえ忘れていたあの感覚を、初めての採血実習でかいた冷や汗を思い出した。私が採血をするときに扱ってきたのは、初めは人間の腕だったが、いつの頃からか人形の腕であり、その瞬間だけ貸し出された「片腕」だったような気がした。

 しかし、話はこれで終わらない。
 科学の眼差しが人間を一過性に人形にする。科学が人間をモノ化する。これとまったく同じ回路を逆向きに通って、人形が一過性に人間になることがありうる。その理路をただちに科学的とは呼びがたいが、科学外的な力がそれを可能にすることがある。そもそも金森にとって全く専門外の話題である「人形」への興味の核心は、たぶんこちらのほうにある。
 思い返せば私はあの日の実習で、同級生の腕を刺す前に、練習用の人形の腕を刺した。肘から先だけの、物言わぬゴム製の冷たい腕を前にして、それがモノだとタカを括ってしまうことはできなかった。「モノとしての身体」という世界観を裏返せば、目の前のモノが身体ではない保証はどこもないことになる。そう、ひょっとしたら、私は人形を刺すときからもう、冷や汗をかいていたのではなかったか。
 この認識論的なスイッチを、金森は〈魂〉という言葉によって説明しようとしていた。認識論的には、魂は抜き去ることも吹き込むこともできる。一握りの限られたモノに魂を与えること。それを「人間」なる者たちに紛れて召喚しようとすること。金森の晩年の著作群は、実はこの可能性について真剣に論じている。今日、魂などという実に科学外的な概念について考える意義が、いったいどれくらいあるのかよくわからない。しかし、そこにはなにか、後続の世代が読み解かねばならない意味があるような気がする。
 そんな風に思い始めたのは、前回取り上げた仮想空間のなかの人形、すなわち、3DCGモデルについて考えていたときのことだった。
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