• Twitter
  • Facebook
2021.06.18

第2回:金森修、非生命の神秘
──肉体の作成と魂の実装

踊るのは新しい体 / 太田充胤

魂の流動性

 魂。このどう考えても「科学外的」な概念に、晩年の金森はこだわった。もう少し言えば、そのon/offというか、出し入れというか、魂という概念の流動性のようなものにとりわけこだわった。
 2012年に出版された仕事で、『動物に魂はあるのか』というタイトルの新書がある。我々人間には魂があるものとして、はたして人間以外の動物には魂があるのか、人間と動物の駆動原理は同じなのかそうではないのかという、古くからある問題とその歴史を扱ったものである。時代ごとの認識の枠組みとともに、魂をめぐる人々の考え方も移り変わってきた。その移ろいを追いかけたこの仕事は、上の2冊とは異なり科学思想史家としての仕事のほとんど本流に位置する。
 よく知られているように、重要な転換点は17世紀、ルネ・デカルトの心身二元論であり、動物機械論である。人間は精巧な自動人形を作ることができるが、それらは神が人間を作ったほどには精巧ではない。人間と人形の区別は、自在に話すかどうか、臨機応変に合理的な対応をとれるかどうかという理性の働きの有無によって簡単に区別することができる。しかし、動物と人形とを区別するのは難しい。とりわけ比較対象が猿のような動物である場合、それらを精巧な自動人形と区別するのはほとんど不可能だとデカルトは考えた。
 『方法序説』で提示されたこの人間/人形観は、同時にデカルトの動物観をも十全に表現している。猿でさえ人形と区別がつかない、ましてや猿よりも下等な動物においては、自動人形と区別する必要がない。動物が動いているのは、それが時計の歯車やゼンマイのように、一定の配置を持つ器官を備えているからに過ぎない。もし仮に、そこに霊魂のようなものが存在していたとしても、人間の霊魂とは似ても似つかないものであると考えられる──。
 こうして神学と近代科学のはざまで繰り広げられた動物機械論は、同時代人のあいだでも少なからず支持され、動物に対して露骨に冷酷な態度をとる文化人もいたという。デカルト自身も、こうして人間を特権化する思想から、積極的に動物の解剖実験を行ったり、人間が動物を殺して食べる立場を擁護したりと、動物を利用可能な対象とみなすことには積極的であった。
 一方、これに強烈に煽られるかたちで、動物も我々人間と同じ霊魂を持っているのだと主張する動物霊魂論もまた盛り上がった。以降、動物は魂を持つ存在と、魂を持たない機械とのあいだを常に揺れ動いていたが、その振幅も時とともに減衰し、どちらの極端な立場にも属さない「常識的」な見方へと世の中が落ち着くと、やがて動物霊魂をめぐる議論自体が廃れていった。
 ただし、いずれにせよ近代が動物を利用可能な対象として扱う過程で、動物と人間のあいだになんらかの線をひく必要があったのは間違いない。非常に興味深いのは、金森がその線引きの手つきを「魂を抜き去る」という情緒的・科学外的な表現で評していることである。「人間を特別視し、固有視するために、周囲に無数にいる動物たちをただの機械装置としてみて、生命も魂も完全に抜き去るということ」[7]。「あらゆる水準での対象的世界から〈魂〉を抜き去るという近代の方策」[8]。すでに触れたように、魂の抜き去りは人間に対してもなされる。なるほど「脳死判定」とは魂の剥奪であったのか、と腑に落ちる感覚があるが、ここで「魂を抜き去る」ことと〈人間圏〉から締め出すこととがパラレルなのであるとすると、〈人間圏〉とはつまるところ、まず間違いなく確実に魂を有し、対象化されるべきではない者たちの空間的集合であると、ひとまずはそのように考えることができるかもしれない。

 困ったことに、今日我々は、人間を含むあらゆる生命体が電気信号とタンパク質の授受によって駆動していることを知っている。動物だって感じ、考え、臨機応変に合理的に行動することを知っている。だとすれば、人間と動物とのあいだには、少なくともその駆動原理が同一であるという点において、科学的に境界線を引ける理由がない。
 それは、実質的には〈人間圏〉の解体を意味していた。20世紀にはいると、こうした現代科学の理解に基づいて動物解放論が繰り広げられた。なかでも有名な論客であったピーター・シンガーは、「重症障害新生児よりもチンパンジーの命の価値を重視する」という立場を表明したことで知られる。もちろんシンガーは強い批判を浴びたが、それで〈人間圏〉の境界が元通りになるわけでない。今日の科学は「〈人間圏〉の成立基盤がなんら生物学的に自明なものではなく、ましてや文化的には自明どころではない浮動性の嵐の中にあるという事実を、否応なく露わにした」[9]

 金森は、こうして古代ギリシャから現代に至るまでの膨大な議論を俯瞰したあげく、袋小路に陥ることになる。
 いまや魂を持つ者と持たない者との境界は、誰かが恣意的に定めるしかないことが明らかになってしまった。しかしながら、『動物に魂はあるのか』という問いによって始められた同書は、その問いに何らかの答えを出すことを自らに課している。博覧強記と振り返られる金森にとって、無数の可能性から恣意的にひとつの境界線を採用し結論をまとめることなど、気の狂うような作業であったに違いない。
 結びの金森は「こんな結論しか出せない私は、或る意味で〈動物霊魂論〉論争史のことなどは全く知らない人たちよりも、さらに一層情けなく、罪深いとさえいえる」[10]と非常に弱気である。結論はこうだ。プランクトンよりは虫、虫よりは哺乳類のほうが人間に近く、魂に近いものを持つ。ミミズや蝉は魂を持たないが、ペットの犬や猫は当然魂を持っているし、美しい眼をした馬や象、キリンなども魂を持っているだろう。そして、人間の魂はそのなかでも少しだけ複雑で優れている。ずいぶん字数を費やしたが、そういう風に答えるしかない──。さて、それでは今日、魂とは一体なんなのであろうか。この答えのない、しかしもっとも重要な問いは、同書の中では最後まで宙に浮いたままである。

 その後の金森が人形を相手取って魂を論じてみた理由は、ひとつにはここにあるだろう。この魂という話題は一見「科学外的」なようだが、それが生命体の駆動原理を示唆する概念である限りにおいて、今日の科学的世界観から絶対に逃れられない。だとすると、今日魂について真剣に論じることは、逆説的にその持ち主が科学的な意味での生命活動をしない者である限りにおいて成立する。科学的には生命体ではないが、「科学外的」には魂を宿すことが可能だと考えられる者──このようなねじれた議論の土俵に上がる存在は、おそらくは人形をおいてほかにない。
 興味深いことに、動物に一定の魂を与え、動物を題材として〈人間圏〉を論じてきた金森が、動物を〈人間圏〉の内側に召喚しようとすることは決してない。結びの線引きを読む限り、魂は〈人間圏〉の必要条件だが、十分条件だとは考えられていない。にもかかわらず、生物学的にヒトではなく生物ですらないものが〈人間圏〉の内側に召喚されるとしたら、その本質的な成立要件とはなんだろうか。人間と魂を通わせ、関係したり交わったりすること? いや、人形性愛と同じく、というかおそらくそれ以上に、動物性愛の話や異類婚礼譚の例はいくらでもあるはずだ。
 金森はこの〈人間圏〉の十分条件を、最期まで明記することはなかった。しかしもし、彼の明記した言葉のなかからそれを拾い上げることが許されるならば、それは次の一点に集約されるように思う。その条件とは、かたちである。
(→〈6〉へ)