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2021.06.18

第2回:金森修、非生命の神秘
──肉体の作成と魂の実装

踊るのは新しい体 / 太田充胤

三角錐、物質的自存性

 日本の人形文化は、土偶や埴輪に始まって、浄瑠璃のような芸術を通り現代美術やポップカルチャーに至る、極めて豊かな歴史を持っている。金森はこれらを俯瞰し多くの例を挙げながら、人形を分類する要素として「呪術」「愛玩」「鑑賞」の3つを抽出した。
 祈りや呪い、願い、憧れを引き受ける呪術的性質。可愛い、愛おしい、抱きしめたいという私秘的な感情を受け止める愛玩的性質。そして、芸術的対象として公共空間で対峙される鑑賞的性質。当然ながらこれらの要素は互いに矛盾せず重複するわけだが、これら三要素の濃淡をパラメータとして個別の人形を表現することが可能であると、金森は考えた。あらゆる人形が、この三要素を頂点として描かれる〈人形三角形〉のどこかに位置するというわけだ。このモデル自体には、それなりの説得力があるように思われる。
 しかしながら、金森が人形に見出すもっとも重要な要素は、実は「呪術」「愛玩」「鑑賞」のいずれでもない。〈人形三角形〉には続きがある。いかなる人形であれ絶対に共通しているのは、それが物質であることである。この「物質性」を頂点に据え、先の三角形を底面とする〈人形三角錐〉が、同書の提出する枠組みらしい枠組みの最終系なのだった。

 このモデル自体の妥当性や有用性は定かでない。というか、そもそも人形が物質であるとはほとんど同語反復的な言及であるようにも見えるし、先の三角形と同様に「この三角錐のどこかにあらゆる人形が位置する」と言ってみることにはあまり意味がない。垂直方向にのびた新しい「物質性」の軸は、上の三要素とは異なり基本的にパラメータとしての濃淡を持たないはずである。そのことに金森自身が気づいていたかどうかはわからない。いずれにせよ確かなのは、金森が同書の序盤で提出したこのモデルを、その後の議論の中でほとんど持ち出すことがなかったという事実である。
 「物質性」は宙に浮いたまま遺著は締めくくられる。しかし、三角錐の頂点に据えられたこの「物質性」というパラメータは、不思議と読後も心を捉えて離さない。何度も読み返すうちに、どうやらこの「物質性」の中に、単にそれが「物質」であるという言及以上のなにかが含まれているような気がしてくる。

完成した人形は想像主体からの乖離を完成させ、物質的自存性・・・・・・によって、それのみで自足するような様相を呈し始める。(傍点引用者)[5]

 自存性。Self-existence。自ずから在るということ。ここで「在る」という概念を用いた金森の含意を厳密に読み解こうとすれば、おそらく哲学史上をアリストテレスやプラトンまで辿らねばなるまい。そのうえ「物質的」という修飾語が、さらに 別の含みを持たせている。この奇妙な熟語は、そのままひとつの章の小題として採用されている。しかし、この語もまた、同書のなかで繰り返し扱われることはなく、ほとんど説明されることもない。
 そのかわり金森は、人形作家たちの言葉を引用することでこのアイデアにそれとなく肉付けをはかる。人形作家には「別個の対存在としての人造人間を作りたいという欲望」があるのではないかという指摘に、人形作家の山口景子とその夫である画家の山口力靖が、美大出身者が共通して叩き込まれているのはまさしく「もの」をつくる論理性であると応える。それは作家が自らの分身をつくることとも、子供をつくることとも違う。やはり人形作家である四谷シモンも、作家は「人形を通して何かを表す」のではなく「人形を通して人形を作る」だけだと述べている。

人形は、それが完成品として独立し始めるや否や、それを取り巻く人間たちの情念を離れて自存し始め、物質的安定性の中でどっしりと落ち着く。〈父・母〉だけではなく、ほとんど〈言葉〉を必要としないほどまでに。その意味で、人形は人間からは遠い存在だ。[6]

 人形は作者の分身ではなく、言葉によって解釈されるのを待っている存在でもなく、ただ独立した物質としてそこに在る。物質は物質であるがゆえに、親も意味もなく自ずから在ることができる。人の手で作られたにもかかわらず「自ずから在る」という語義矛盾のなかに、実際には時間の厚みがあり、不可逆的な切断線がある。それは、作り出したモノと関係を持つピュグマリオンの欲望とはややずれたところにあり、生命を作り出す神の技術への欲望ともどこか違う。
 作り出したモノがいつのまにか作った者の手を離れ、まるで作られたことも忘れたかのように、無関係にひとりでに在ること。魂を与えるのではなく、魂が自ずからそこに宿るということ。あるいは、魂を宿すこともできる器としての物質が、そこにあるということ。金森は、単なるモノに魂を吹き込んでいるのは我々人間の願望や幻想のほうなのだ、とは弁明しながらも、その単なるモノが魂の器たりうること、その必要条件が人形には備わっているという前提を信じて疑わない。
 我々は道具に魂を見出せるか。建築に魂を見出せるか。基本的には否である。道具とも建築物とも違う、人形特有の物質としてのありようを「物質的自存性」と呼んでいるのであるとしたら、金森の言説空間においてはそれこそが魂の実装の必要条件であり、非生命の神秘の核心であるに違いない。
(→〈5〉へ)