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2021.06.18

第2回:金森修、非生命の神秘
──肉体の作成と魂の実装

踊るのは新しい体 / 太田充胤

規範、人間のかたち

 かたちである、と端的に書いたが、この表現は正確ではない。金森自身の表現で正確にいえば、人形が今のところは人間の体を規範とし、人体像を表現したものである、ということになる。人形はこの一点によって、人間圏との関わりにおいて、他のあらゆるモノあるいは生命体とは異なる特権的な位置を占める。

 言ってしまえばなんでもないことのように思うかもしれない。その一方で、形状によるこういう線引きもまた、ある種の締め出しを伴う恣意的な基準だと思われるかもしれない。まさしくこの規定は、一見するとかつてマイノリティを〈人間圏〉から締め出したロジックと近接する危うさを持っている。しかし、もちろん金森の意図はそんなところにはない。そもそもそれは締め出しではなく、その柔軟性によって〈人間圏〉を拡張するロジックである。
 人形は人間のかたちをしている。ここまでは、多少の例外はあれどおそらく誰もが納得する、基本的な前提である。しかしこの前提が、単に「人間のかたちをしている」とか「人間の体を模造している」とかではなく「人体を規範としている」という言葉で表現されるとき、そもそもかたちとは規範であったのだ、という事実に我々は思いあたる。
 金森はやはりなんの注釈もなく、さりげなくこの「規範」という語を選び取る。しかし、その奥にある含みは、先の「物質的自存性」よりもずっと読み取りやすい。初期の重要な著作『フランス科学認識論の系譜』の中で、金森はフーコーの議論が持つ地理学的な側面を強調した。ある特定の属性を持つものが、所定の空間に集積され管理されること。貧者は施療院へ、狂気は精神病院へ、病人は病院へ。それは空間的にはある境界の内側に閉じ込めることを意味するが、社会的には「規範」から外れる者を外側へ締め出すことを意味する。精神医学はその起こりにおいて、こうして閉じ込められ/締め出されたものを規範化し、再び社会の中に位置づけることをその役割とした。

 思えば〈人間圏〉という奇妙な空間的比喩のルーツは、このあたりの地理学的感覚にあるのかもしれない。「人間の条件」のような性質そのものを指す表現ではなく、特定の性質によって満たされた空間を指し示すほうが、この場合は適当である。こうして特定の空間に充満した条件、特定の様式のことを「規範」と呼ぶのだとしたら、人間ならざるものが人間の空間のうちに出現するとき、それらは当然ながら、人体という規範に身をやつし、人間のかたちをした物質として現れる。人形は人体という規範に従うからこそ、〈人間圏〉の内側で自存する。
 この「規範」とは、一般にイメージされるような「守るべきルール」のことでもない。フーコーをさらに遡れば、カンギレムにたどり着く。金森は1999年の論文「健康という名の規範」で、カンギレムが「規範」という語に込めた意味を論じた。健康、すなわち生物学的に正常であるという概念は、事実を指し示すだけではなく「あらねばならぬようにあるもの」という規範的含意を含んでいる。しかし、それは「常にその状態にあらなければならない」という倫理のことではない。むしろ生物にとって規範は、完全な健康を参照しながら絶えず自分の行動を調整するような、到達しえない理念としてある。規範的な生物とは、その気になれば新しい規範を設定できる存在のことでなくてはならない。「生理状態もまた一つの規範なのだから、多様な病理状態という他の規範群のなかで飛びぬけた別格の存立根拠をもつわけではないという判断へと、道を開いてくれるという可能性のなかにあるように思える」。

 人体を表現し、常に理念としての人間に近づこうとすること。これが、〈人間圏〉の内側に人間以外のものが入るための「規範」である。そして、それは現状、人間のかたちを模していることを意味する。しかし金森は「規範」という語のさりげない選択によって、それが不変のものではなくいかようにも更新される可能性を有することを示唆している。人間を表象した彫刻作品や絵画が、現代美術の領域で人体のかたちを自在に作り直してきたように、人形にもそのようなありかたがあっていい。

人体は、人形制作のほぼ永遠の規範なのか。いや、そうとも言えない。近未来の人形は、神経接合でウェブに拡散する思考(脳)というギブスン的世界、ウェブでBMIが実現するいわば世界に散乱した四肢・・・・・・・・・のように、それらの特異なイマジネールや技術が日常化した世界の中で、技術刷新に煽られた人体像そのものの変化と連動して、自ら姿を変えていく可能性がある。(中略)現代の人形界は、ひょっとすると伝統的人間像へのそれなりの執着の最終相をしめすものなのかもしれない。(傍点引用者)[11]

 モノとしての身体、あるいは身体としてのモノ、という比喩はもはや陳腐化する。身体は古典的な意味でのモノであることから自由になる。金森自身は気がついていないが、ここにきて初めて、〈人形三角錐〉の頂点に置かれた「物質性」というあの奇妙なパラメータは意味を持つ。伝統的人間像の物質性の解体とともに、人形の物質性は変数となる。人形はあるいは物質性を失い、あるいはかたちを流動させ、それでも依然、人体を規範としつづける。ただただ人体を参照しながら動的平衡を保ち、人間とは無関係に自存する「人間のかたち」をしたそれら・・・を、ただちに生命とは呼べないが、身体と呼ぶことにはいささかの抵抗も感じない。
 『人形論』の終盤には、「仮想空間における人形」という意味ありげな小題をつけられた章がある。期待に胸を膨らませて開いてみれば、そこで扱われているのは文学作品や映画などのフィクション的な言説空間であり、残念ながら「仮想空間」という語から一般に想起されるインターネットやサイバースペースの話題ではない。とはいえ、わざわざ「仮想空間」などという熟語を選んでおいて、今日の情報技術について念頭にもなかったと考えるほうが不自然である。やはりここでも勝手に想像するならば、このとき金森の喉元まで、仮想空間における現代のゴーレムの話題が出かかっていたような気がする。情報技術によって生み出された現代のゴーレム。つまりは、3DCGモデルのことである。
 ゴーレムに生命を吹き込むという現象は、それが仮想空間における出来事ではあるにせよ、すでにフィクションではなくなっている。無機質なオブジェクトが、目の前で自分の手を離れ、ひとりでに生き生きと踊りだすこと。その器を身体と呼び、そこになにかが宿ればそれを魂と呼ぶのだ。新しい身体論は、高らかにそう宣言せねばならない。
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