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2021.08.20

第4回:オルタとデジタルシャーマン
──機械をめぐる霊魂論

踊るのは新しい体 / 太田充胤

霊魂のインストール

 奇遇にも、2017年のメディア芸術祭にはもうひとつ、オルタとは対照的な人型のロボットが展示されていた。メディアアーティストである市原えつこが2015年に発表した作品、「デジタルシャーマン・プロジェクト」である。

 シャーマンの名前が示すとおり、同作は霊界との交流をテーマとする。
 交流を媒介するデジタルシャーマンを演じるのは、ペッパー君である。「ペッパー君」とは2014年にソフトバンクから発売されたキャッチーな人型ロボットで、正式名称を“Pepper”という。今ではあまり見かけなくなったが、一時はあらゆる商業施設で店頭に立っていた。チェスのポーンみたいなつるりと白い体に二本の腕が生えている。胸の前にタッチパネルが取り付けられ、情報の掲示や、ユーザーの入力のためのインターフェースとして使われる。足はなく、三角形の底面についた三つのキャスターで移動する。オルタと違って誰からも愛されそうな顔をして、中性的なかわいらしい声で人間の言葉を話す。
 「デジタルシャーマン・プロジェクト」では、このペッパー君がイタコになる。亡くなった人の3Dデスマスクをかぶり、故人の声で話し、故人の身振りをロボットの体で再現するのである。いうなれば空っぽの霊媒であるペッパー君に、故人の霊魂がインストールされるわけだ。
 日本の四十九日の慣習になぞらえ、霊魂は故人の死後四十九日で機能を停止するようになっているそうである。魂が抜かれれば、ペッパー君はまっさらな霊媒に戻り、ふたたびデフォルトの機能で発声し運動するだろう。故人の霊を宿したペッパー君と、宿していないペッパー君、それらは全く同じモノなのだが、四十九日を一緒に過ごしたユーザーの目には、きっと全く別の存在と映るに違いない。

 こうした仕掛けと、市原自身が言語化したコンセプトにも引きずられ、本作は死、および弔いのありかたを問い直す作品として評価された。しかし、本稿の趣旨に照らしてむしろ興味深いのは、その身体表象としての側面である。

 昨今では「AI美空ひばり」や「渋沢栄一アンドロイド」といった人工知能による著名人の再構成が話題を呼び、物議を醸してもいる。生前の故人の一挙手一投足を記録し、膨大なデータを集めて学習させるによって、ロボットやCGに故人がいかにも言いそうなことを言わせたり、故人そのものの身振りで動いてみせたりするというものである。
 「デジタルシャーマン・プロジェクト」もまた、これらの想像力の系譜にあるように見える。もちろん、デジタルシャーマンの発声や身振りはあらかじめ収録されたものの再生に過ぎず、したがってこれはAIでもアンドロイドでもないのだが、故人がテクノロジーによって現前する状況を描いた一種のフィクションであることは間違いない。
 ただし、上記の著名人AIとは大きく異なる点もある。著名人AIが顔や体格を似せた固有の肉体(ロボットや3DCG)を前提とするのに対し、デジタルシャーマンではいかなる霊魂に対してもペッパー君という共通・汎用の霊媒が与えられることである。これは逆にいえば、特定の霊魂がインストールされる先は、世界中どのペッパー君でも構わないことを意味する。実際、当時の市原は、霊魂データセットとデスマスクをパッケージとして販売し、購入したユーザーが手持ちのペッパー君で見ず知らずの故人を降霊できるようにしたいという奇想天外なヴィジョンさえ掲げていた。
 つまるところ「デジタルシャーマン・プロジェクト」は、AIで故人を再構成するフィクションなのではない。霊魂をインストール可能なデータセットだと見なし、データセットがインストールされた物質を「身体」と呼んでみせる、というフィクションだったのである。

 この場合、制作の焦点は肉体の外観に頼らないリアルさの追及にあり、問題は汎用の肉体になにを流し込めば故人のリアルさを表現できるかという点にある。肉体とはまったく独立して魂だけを再構成するにあたり、優先的に押さえるべきポイントとはいったいなんだろうか。
 結論を先に言ってしまうと、市原が魂と呼んだのは主として身体運用の偏りであった。発案当初、市原はまず人工知能による会話型プログラムの作成を目指していたらしい。しかし制作を進めるうちに、それが「その人らしさ」を出すために効果的な方法では必ずしもないと思うようになった。ペッパー君という物理的霊媒に故人を仮託するのであれば、より本質的に故人を表象する別のなにかがあるだろうと考えた市原は、最終的に非言語情報の表現、端的には体癖の再現という手法にたどり着く。たとえ意思疎通がなされなくても、最低限体癖のモーションデータさえ物理的身体に流し込んで再生すれば、あたかもそこに故人が蘇ったかのような感慨がもたらされるのではないかということである。[3]
 そういえばオルタの誕生にも、言語による会話という方法をあえて選択しなかった経緯がある。

石黒 (……)われわれが開発したエリカというアンドロイドは、ようやく一〇分間くらい、遠隔操作ではない完全自律型で、人間と対話できるようになりました。しかし、そこに至るまでには、対話のルールをガチガチに作って、音声合成や音声認識も京大とATRと阪大ですごい労力をかけて、やっと一〇分程度しゃべっていられるようになったわけで、費用も労力も、かけているコストがオルタとは雲泥の差です。でも、オルタはあっという間に一〇分が過ぎるようなインタラクションができていて、なんかちょっとショックです(笑)[4]

 2017年のメディア芸術祭で共演したふたつのロボットには、どうやら奇妙な符号が重なっている。言うまでもなく、扱っているテーマは片方が「生命」、もう片方が「霊魂」や「死」と極めて近接している。しかしながら、それらのロボットが、生命・死あるいは人間を問おうとしたアプローチはまったく正反対と言ってもよい。
(→〈4〉へ)