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2021.08.20

第4回:オルタとデジタルシャーマン
──機械をめぐる霊魂論

踊るのは新しい体 / 太田充胤

人間ならば裏切れるのか

 よりよく裏切るモノ、裏切りつづけるモノだけが、踊りつづける権利を得る。不気味なものだけが魂を得る。
 かつて土方巽が暗黒舞踏という新領域を切り開いたとき、三島由紀夫は「われわれの日常的な期待にほとんど答ヘず、我々の目的意識を精妙に背く」[10]と評した。種村季弘は「ここから手や足が出ると見当をつけたところからは手や足は出ない。一本の指が伸びて行く先はここらだろうと思うと、そこには行きつかない」[11]と描写した。
 私がオルタと初めて出会ったときに感じたのは、まさにそのような意味での有望性だった。しかしそんなオルタの魂でさえ、2回目にはもう減衰してしまっていたのである。

 「おさなごころを、きみに」でがっかりした後、私はもう一度オルタを見に行った。そうせずにはおれなかった。訪れたのは、オルタが常設で展示されている科学未来館である。映像ではなく直接の対面ならば再び驚けるのではないかという淡い期待もあったが、残念ながらそうはならなかった。
 はじめは無目的で不規則に感じられた身体運用のシークエンスは、もはや不規則であること自体が予測可能な事象となり、それでいていつまでたっても様式美として組織されることはなかった。魂を失うのは同じ動きを反復する自動人形だけではない。二度と同じ動きをしないとわかっているオルタもまた、その魂を失ってしまうのである。
 それはやっぱり、雄大な自然を見る経験に等しかった。我々は雲や炎に魂を認めないし、それらをダンスとも見なさない。運動がダンスとして組織化され、魂の器となるためには、まだ何かが足りない。常設展示会場の長期滞在しづらさも相まって、三度目のオルタとの邂逅はほんの一瞬に終わった。

 オルタと向き合って踊った森山は、あのときいったい何を感じていただろうか。
 森山は、オルタの体に指一本触れなかった。ぐっ、とオルタの目を見据え、その体の表面をなめ回すように自らの腕を動かし、話しかけるように踊っていた。オルタが腕を上げれば、森山の腕はその運動についていく。オルタはといえば、人工の白い皮膚から10cmほどの空間をなでる森山の腕に、反応しているのか、していないのか、わからない。
 映像作品としての到達点が森山に依存する以上、森山はこの機械に何がどこまでできるのか、この機械が何にどのように反応するのか、探りながらもっとも面白いシステムのあり方を探そうとしただろう。相手の魂を垣間見ながら、自らの魂を開示すること。二つの魂の落としどころを探り、二つの魂からなる系の最大到達点を探ること──そのように未知の相手と対舞する経験は、相手が人間であれ機械であれ、さほど変わらないような気もする。
 しかしながら、生身の相手とは違って、オルタの側では森山を模索してくれない。対舞の過程でどのような興奮が生じようとも記憶せず、同じ興奮を再現しようとすることもない。そしておそらく、オルタの身体運用のひとつひとつがいかに不規則であれ、シークエンスとしては森山の予想可能な範疇を超えない。すなわち、オルタは寄り添いも裏切りもしない絶対的な他者としてただ目の前にある。これはひょっとしたら、ある種の動物と踊るよりもずっと空しい。

 金森がこれらのロボットを目の当たりにしていたら、いったいどう評価しただろうか。
 ただモーションデータを再生するだけのデジタルシャーマンやスポットのことは、ほとんど評価しなかっただろうという気がする。他方、一応は自ら身体を運用してみせるオルタについては、少しは面白いと思ったかもしれない。
 しかし見方を変えてみれば、オルタよりもデジタルシャーマンのほうがまだ、我々を裏切る余地が残されているともいえる。「デジタルシャーマン・プロジェクト」とは故人と遺族との関係という親密圏で起動するフィクションであり、裏切りでもなければ不気味なものでもない。しかし、故人と遺族という特定の関係を離れて無関係な他者の魂をランダムにインストールしたとき、それは固有の肉体というメディア抜きに身体運用のみで表象される、不気味な他者として立ち現れる。魂は四十九日で、ネタの鮮度が落ちる前に消滅する。新しい魂をインストールすれば、そこに現れるのは新しい身体である。この方法では、原理的にネタが枯渇しない。
 その魂というのがデジタルシャーマンのそれのように決められたモーションの再生であったとしても、その価値はいささかも減じない。実際にデジタルシャーマンによって故人を偲んだユーザーがいるのかどうか知らないが、そのモーションが「ああ、あの人はたしかにこんな身振りをしていた」と思わせる水準にまで達するとしたら、それはとりもなおさず、モーションデータが優れた振付だったということである。
 そういえばスポットだってそうだ。彼等には新しい振付を再生する余地がある。新しい身体運用を自ら編み出す力はないが、人間が編み出した身体運用のシークエンスを流し込まれて新しく踊ることができる。

 よく考えてみれば、そもそも振付とはそういうものではなかったか。
 そしてそうだとしたら、人間が振付を踊り、踊るたびに新しい身体表現として成立せしめることは、振付者の身体運用の流し込み再生といったい何が違うのだろうか。たしかに繰り返し再生された機械の運動は魅力を失う。しかしそれならば、同じことが、ある程度までは生身の人間についても言えなければおかしいのではないか。
 それだけではない。たしかに自動人形の魅力は、しばしば運動そのものの新鮮さではなく外的なフィクションに依存する。しかし我々は生身の人間のダンスをも、しばしばそのように鑑賞しているのではないか。古典的なコードによる振付は、基本的にネタが割れている。運動に意味やストーリーを読み取れるフィクションの枠組みによって、ダンスそのものは脱色されていく。たとえばクラシックバレエにおいて白鳥という記号が表象されるその瞬間、踊っているのが身体を運用する生身の人間であって、一時的な魂を与えられた自動人形ではないと、我々はいかなる根拠によって断言できるだろうか。
 ひとたびこうして列挙し始めれば疑問は尽きない。同じ公演を繰り返し鑑賞してもなお、感動することがあり得るのはなぜだろう。一方で、同じダンサーが即興でそのたびごとに新しい身体運用をみせたとしても、その時々で感動したりしなかったりするのはなぜだろう。

 機械にはなぜ魂を認めがたいのかという我々の問いは、いつのまにか我々人間に対しても突きつけられている。我々人間は、はたして魂の減衰と無縁でいられるのか。人間は人間を、正しく裏切り続けることができるのか。こと身体表現に関する限り、機械に対する人間の魂の優位性は、それほど自明なことではない。

 

 

[1]河村悟『舞踏、まさにそれゆえに──土方巽 曝かれる裏身体』現代思潮新社、2015年、134頁
[2]http://archive.j-mediaarts.jp/festival/2017/art/works/20a_alter/
[3]https://www.youtube.com/watch?v=dEyU1mchOIU
[4]池上高志+石黒浩『人間と機械のあいだ──心はどこにあるのか』講談社、2016年、101頁
[5]金森修『動物に魂はあるのか──生命を見つめる哲学』中公新書、2012年、72頁
[6]https://www.cnn.co.jp/tech/35060457.html
[7]金森修『人形論』平凡社、2018年、103頁
[8]同書、86頁
[9]金森修『ゴーレムの生命論』平凡社新書、2010年、140頁
[10]河村『舞踏、まさにそれゆえに』、20頁
[11]同書、82頁

 

 

(第4回・了)

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2021年9月24日(金)掲載