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2021.08.20

第4回:オルタとデジタルシャーマン
──機械をめぐる霊魂論

踊るのは新しい体 / 太田充胤

商業機械は二度裏切る

 ところで先ほど人間に蹴っ飛ばされていた犬型ロボットのスポットだが、実は彼もまた四本の足を器用に使って踊ることでも知られている。前回「我々は四本足のダンスを知らない」などと書いたばかりだが、インターネット上ではすでに、彼等の四本足のダンスが蹴っ飛ばされたエピソードよりもずっと有名になっている。

 こちらは2018年の動画。マーク・ロンソンの「Uptown Funk」にあわせて首をかしげるようなリズム取りから始まって、驚くほど軽やかにステップを踏んだりジャンプしたり、お尻を振ったりしたのち、最後はランニングマンと呼ばれるステップで後退しながらフレームアウトするというお茶目な芸当をみせる。

 まあ、このぐらいならばまだ、音に合わせて動いているだけという印象にとどまる。しかしつい先日、2021年6月に公開されたものはさらに精緻だ。韓国のダンスグループBTSの楽曲「I’m on it」にあわせて、総勢7体が一糸乱れずユニゾンを踊っている。

 これらの動画を一見して、面白いと感じることまでは認めざるを得ない。さて、なにがどう面白いのだろう。スポットのダンスは明らかに人間を規範としており、振付としてはなんら新しいものではない。上手いといえば上手いが、もっと上手く踊る人間など無数にいるのだから、これは身体制御の巧拙による面白さでもない。
 踊っているのがまったく新しい体だという点は特筆すべきかもしれない。スポットが使うのは四本足だけではない。犬の頭にあたる部分から伸びた蛇のようなロボットアームが、顔と手腕の両方の役割を果たしている。
 冒頭、画面に向かって一列に並びアームの位置を左右にずらしてみせる振付は、人間ならば俗に千手観音などと呼ばれる。人間ならばおおむね千手観音の一言で片がつくくらいの使い古された振付ではあるが、スポットのロボットアームだとクジャクが羽を広げるような扇形になったり、風車のようになって回ったり、逆に地面へ向かってだらりと垂れ下がって足のように見えたりと、バリエーションに富んでおりまあまあ目新しい。
 2018年のほうでは、ロボットアームが先端のくちばしを空中にぴたりと固定し、その後ろでアームがくねくねと動いているというくだりも良かった。これはアイソレーションと呼ばれるタイプの身体制御で、人間ならば他部位の位置を変えずに頭や胸、腰などを動かすことを指すが、これまたスポットの体でやるとかなり趣が違う。手のような合目的性と頭のような記号性、両方の役割をうまく利用した、人間にはないかたちの極めて魅力的な運用である。なるほど、人間の身体運用をこのかたちに流し込むとこうなるのか、という驚きがある。

 しかしながら、すでに見てきた自動人形と同様、面白さの根幹が「機械であるにもかかわらず、まるで人間のように」という外的なストーリーにあるのは否定しがたい。のみならずそのストーリーは、江戸のからくり人形よりもはるかに脆弱であるように思われる。
 振付をつつがなく再生する機械工学的な技術の高さについては、素人ながら驚くべきものがある。しかし逆に言えば、彼等のダンスは機械としての合目的的行動のために最適化された内部構造を見せつけるためのパフォーマンスにすぎない。これはたとえていうならば、身体表現が競技化され得点制になったスポーツとか、身体能力の高さを誇示するために行われるアクロバットを見るときのような、面白いが噛み応えはない鑑賞経験に似ている。
 動画の最後には「Hyundai×Boston Dynamics」とクレジットが出る。どこかにHyundaiの商品が出てきただろうかと動画を見返してもよくわからない。いったいどういうことかと調べてみると、どうやらこの「I’m on it」という楽曲自体が、HyundaiのEV自動車「IONIQ」のプロモーション楽曲だったのである。なんだ、それでは最初から、この動画はHyundaiとBoston Dynamicsの二社による広告だったわけだ。そう気がついてしまったが最後、なんだかすっかり白けてしまい、ダンサーとしてのスポットには二度と興味を持てなくなっていた。

 澁澤は自動人形の悦楽を「生産社会に対する、隠微な裏切り」と呼んだ。本来高い目的性をもって作られるはずの機械が、他方、踊ることもまた、合目的性への抵抗に他ならない。それ自体を自己目的化する身体運用の悦楽は、基本的に何の役にも立たない。この意味で、最新のテクノロジーを無駄遣いする機械のダンスは、社会へのこの上なく優雅な裏切りだと言ってよい。
 しかし実際には、スポットに裏切られていたのは我々のほうだった。一見社会を裏切って遊んでいるかに見えて、実のところそれを一度でもダンスだと思って鑑賞した我々こそが裏切られていたのだった。
 彼等がまるで人間のように踊れることはもうわかった。以後、よほどのことをされない限り、我々はもう彼等のダンスには驚けないような気がする。それは新しい体として、あるいは新しい時代の幕開けとして、いまだけは驚かれるが、おそらく10年もすれば珍しくもなんともないものになっているに違いない。
 踊れるロボットの登場が相次ぎ、やがて「機械であるにもかかわらず…」というストーリー自体が失効したとき、それでもなお踊りつづける機械は残っているだろうか。もしかしたらそんな機械はひとつもないかもしれない。しかしおそらくはそういう機械だけが、魂の器たりうる強度を持っている。
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