第5回:ダンサーに魂はあるのか ──データベース・改変・再配布 | かみのたね
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2021.10.29

第5回:ダンサーに魂はあるのか
──データベース・改変・再配布

踊るのは新しい体 / 太田充胤

ダンサーに魂はあるのか

 我々は、人間が人間らしく見えることの根拠を、しばしばその動きや発話のノイズやランダム性、ハプニング性に求めようとする。しかし、演劇では繰り返される稽古や公演によって動きや発話が洗練されるほど、こうしたノイズが摩耗し、かえって日常的な自然さから乖離していく傾向にある。ならば「人間らしさ」は、俳優に期待するよりも予め演出として厳格に振り付けてしまったほうが理にかなっている──。概説すれば、平田の立場は以上のようなものである。
 実はノイズやランダム性は、人為的に振り付けることも十分に可能なものである。平田が台詞や動作のタイミングを0.1秒刻みで調整し、俳優に叩き込むエピソードは有名だ。平田はこれを「ランダムをプログラミングする」と呼んでいる[2]。もちろん、それは演出家の高い技術を要求するが、平田にはその技術がある。そして、そのように魂を振り付けることのできる演出技術を前提とするならば、俳優はロボットでも人間でも構わない。むしろ忠実に振付をこなせるロボットのほうが、目的には適しているかもしれない。
 実際、平田は2008年から「アンドロイド演劇」と銘打って、石黒浩とともに人型ロボットによる演劇プロジェクトを行っている。今はまだ魂の振付を人間の演出家に頼るしかないが、いずれはそれがプログラムできるようになり、100年もすればロボットが人間の役者にとって代わるに違いない、とそんなことまで述べている[3]
 ここで魂とは、遂行される振付の問題であり、与えられた演出の問題である。それ以外の場所に魂は存在しない。したがって、優れた振付家のもとでは、ロボットはいつでも魂を宿すことができる。いやむしろ、求められたかたちの魂を舞台上に顕現させることにかけては、ロボットのほうが生身の人間より上だろう。魂をめぐるロボットと人間の立場は、ここで明らかに逆転している。

 なるほど、たしかに演劇についてはそうなのかもしれない。それでは、ダンスについてはどうだろう。
 批評家の佐々木敦は、アンドロイド演劇をめぐる平田との対談を引用した一連の演劇論の中で、平田の系譜にある演劇とダンスとが実質的には同じものであると指摘する。

そして「からだ」の厳密で精確な駆動、ということが、そこで行われている/起こっていることだとすれば、それが「演劇」と呼ばれて/思われているとしても、実際に為されていることは「ダンス」と同じなのではないか。そこでは或る「からだ」が、意識的に無意識的な発話と身振りを再現/表象してみせている、外挿された台詞と振り付けによって内発的なことばと動きを再生/反復してみせている、ということだからである[4]

 かくして身体制御という点に話を絞れば、ダンスと演劇との差異はほとんど消失する。
 いや、考えようによっては、むしろダンスのほうが演劇以上に機械的かもしれない。ダンスは初めから「人間らしさ」を表象することを求められていないからだ。思えばオルタは文字通り「ランダムをプログラミング」された機械であったが、ランダムに動き続けるだけではダンスにはなりきらなかった。他方、劇場の舞台においては、「一糸乱れず」踊ることがひとつの価値であるのは疑う余地がなく、したがってわざわざノイズを振り付ける必要もない。
 ダンスがそのような芸術であり、そのような芸術でしかないとすれば、この世界でもっとも優れたダンサーとは、スポットのように振付を正確に再生する機械のことである。だとしたら、機械が人間のダンサーにとって代わるのは、機械が役者にとって代わるよりずっと早いことになりそうだ。我々は近い将来、生身の人間ならばよほど訓練しないとできないような振付を、機械がやすやすと踊るところを目にすることになるだろう。

 しかし、本当にそうだろうか? ダンスというのは本当に、それだけのことだろうか?
 演劇とダンスの類似性に関する佐々木の指摘はおそらく正しい。ただしそれは、習得した一連の振付を特定の場で再生するという、ごく限られた状況においてのみ妥当なのではないか。このような状況は演劇にとっては一般的な状況だが、ダンスにとってはやや特殊な状況である。別の言い方でいえば、ダンスと演劇の極めて重要な差異は、演劇は基本的に舞台の上にしかないが、ダンスは常にそこかしこにありうるという点にある。
 まるで演劇みたいだ、という局面は日常にも無数にある。しかし、それらが実際に演劇であると認められることはそう多くない。平田が振り付けるような日常的で自然な身体運用とは、舞台以外の場所で行われれば演技ではなく単なる日常動作である。そのような身体運用は、舞台という特殊な空間に置かれ、観る者と観られる者とのあいだを明確に仕切られることによって演劇に「なる」。
 他方、ダンスはどのような条件下でも成立する。日常から隔絶された特殊な空間ではなくても、誰がみてもダンスだと呼べるような身体運用を展開することは容易である。公共空間でもいいし、一人の部屋でもいい。誰かが見ていてもいいし、見ていなくてもいい。ストリートダンスがダンスのごく一般的な形態であることは、演劇領域で1960年代に盛んになった街頭劇がいまだ特殊形態にとどまるのとは対照的かもしれない。

 とはいえこうした感覚は、ダンスなるものをどのように経験しているかに高度に依存する。立場によって見える景色はかなり異なるだろう。ダンスが嫌いな人と好きな人とで違うし、演劇の延長でダンスを観る人とダンスの延長で演劇を観る人でも違う。観るだけの人と踊る人とでも当然違うだろうし、踊る人のなかでも、スタジオで習うものだと考えている人とそうではない人ではまた違う。権威あるクラシックな語彙を習得したバレエダンサーと、踊ることが無法地帯の闘争そのものであるストリートダンサーではやはり違うだろう。
 私自身にとって、ダンスは観るだけでなく自分で踊るものであり、スタジオで習うだけでなく道端やクラブでなんとなく踊るものである。このような立場から見て、優れたダンサーとはもちろんスポットのことではなく、たぶんオルタのことでもない。現時点で機械が人間のダンサーにとって代わりそうな兆しはないが、しかし、どのような機械ならそうなれるかについてはいくらかのイメージをもっている。
 核心に入るまえに、ダンスについて私個人の立場から見えているものを共有しておく必要がある。生身の人間が踊ることがどういうことか、当事者としての身体感覚のひとつを開陳したい。
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