第5回:ダンサーに魂はあるのか ──データベース・改変・再配布 | かみのたね
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2021.10.29

第5回:ダンサーに魂はあるのか
──データベース・改変・再配布

踊るのは新しい体 / 太田充胤

身体内外のダンス

 言ってしまえば当たり前のことではあるが、踊る体にとってみれば、踊っている時間のなかにダンスが存在することについては、ほとんど疑う余地がない。
 これは単なる同語反復のようでいて、意外にも重要な前提である。なぜなら我々は、そもそもダンスとはなんであるかを必ずしもよく知らないからだ。「ダンスが存在するならば体は踊っている」とか、「踊っていない時間にはダンスが存在しない」といった命題が真であるか否かについて、我々は即座には答えを返せない。ダンスという概念には、実際には複数の水準が含まれている。
 誰かの身体運用を別の誰かが「ダンス」であると認めるかどうかをめぐっては、ときに決着しえない議論が生じうる。踊っている当人がダンスであると主張しても、傍から見ればいわれるまでダンスには見えないことがある。逆に、踊っているつもりがなく繰り出される身体運用がダンスに見えるケースもあるだろう。我が身を振り返っても、体がリズムをとっているのを人から指摘されて気がついた経験や、喋っているときのジェスチャーを踊っているようだと評される経験など、挙げればきりがないほどある。

 つまるところ、ダンスには内的な水準と外的な水準がある。
 ダンスは体の内側と外側、両面で生成され成立する。だとすると、ダンスとはなんであるかという問いにもまた、二つの問題が含まれる。踊る体の外部には、ある身体運用が「ダンス」として認識される過程とはなにかという問題がある。先の前提に立ち返るなら、もうひとつのより重要な問題は踊る体の内部にある。すなわち、踊る体にとって「ダンス」とはどのような経験かという問題である。
 前者はつまり、身体外的な権威化の歴史である。ここまでは誰が見ても間違いなくダンスと認めることができる、という領域があるとすれば、それは個人の鑑賞経験ではなく集団の認識に依存する。たとえば、すでにあまねく共有された古典的なボキャブラリーの連続からなる振付の遂行は、多くの鑑賞者の間にダンスであるという共通認識を成立させる。
 しかし、前回も触れたように、我々が目を奪われるような身体運用はむしろ、しばしばこの身体外的な規範をまったく裏切って登場する。ここで外的な規範に依存せずに、身体運用をひとまずダンスとして成立させる論理は、踊る体の内部にしかないように思われる。
 とはいえ後者の論理をあまりに強調すれば、本人がダンスだと主張していればダンスなのだ、というほとんど役に立たない同語反復に帰着する。個人の身体感覚(あるいは利益相反)に依存する主張を鵜呑みにして、なんでもかんでもダンスと呼ぶわけにもいかない。

 この内側のダンスについて、別の角度から考えてみよう。
 平田は冒頭のテーゼを「俳優に心/内面はいらない」とも言い換えている。ここで言う心や内面とは一種の比喩(あるいは揶揄)に過ぎない。その意味するところはつまり、精神とか意識の流れのような具体的な概念に限定されない、外側から見えないものすべてであろう。ここで意図的に語り落されている内的経験は、ダンスにとってなんらかの意味を持つのか、どの程度の意義を持つのか。平田‐佐々木の指摘をダンスにおいて検討するならば、問題はそういうことになるだろう。
 いわゆる「心」や「内面」のような曖昧で主観的な要素をなるべく排除して、しかしそれでも身体の内側に残るものを問うてみたい。問いを極限まで研ぎ澄ませたところで行き当たるのは、モノ/機械としての体にほかならない。俳優は心を持たぬ機械でかまわない。ダンサーも機械でかまわない。だとしたら、機械にとってダンスとはなにか。モノにとってダンスとはなにか。他方、人間にとって機械のダンスとはなにか。鑑賞者が、モノ/機械がたしかに踊っていると認めるのはどのようなときか。
 ダンスをめぐって身体内外に配置された二つの問いは、とどのつまりこのように変換できるはずである。

 あらためて踊る機械について整理しよう。前回取り上げた機械たちは、大きく分けてふたつの方向性を持っていた。ひとつはからくり人形のように、あらかじめ踊るためのデータを与えられ、期待されたとおりの運動を再生する場合。霊魂データをダウンロードして再生するペッパー/デジタルシャーマンや、振付を仕込まれて踊るスポットがこれに該当する。もうひとつは、その場でランダムに運動を生成しつづける場合。現状ではオルタのみがこれに該当する(もし他にもあればこっそり教えてほしい)。
 与えられた情報の再生端末にすぎない前者の機械よりも、自ら情報を生成する後者の機械のほうが、直観的には魂への距離が近いように感じられる。のみならず、生成される情報には予測不可能な面白さ、裏切りの魅力が伴っていた。ひとまずこのあたりが、オルタの身体運用が優れていると感じられることの根拠である。
 その一方で、鑑賞者はオルタの身体運用がダンスであるかどうかという点について、しばし判断を迷わねばならない。それをダンスであると即座に認めるためには何かが足りないし、何度も見ているうちに飽きてしまう。他方、我々はスポットの身体運用を見て、それがダンスであると直観的に判断できる。誰に聞いても間違いなく同じ答えが返ってくるだろう。

 さて、両者はなにがちがうのだろう。音楽に合わせて動いているかどうか? たしかにオルタが動いている映像に適当な音楽を合わせれば、それだけでダンスに見えるかもしれない。しかし、スポットが踊る映像は、音を消して鑑賞してもダンスであると判断できる。判断の根拠は、明らかに運動そのものにある。
 おそらくここには、先に述べたダンスの身体外的な要素がある。オルタが人間の身体運用を一切参照していないのに対して、スポットに与えられた振付はすでにダンスであると広く認められた人間のボキャブラリーで構成されている。体のかたちは目新しいが、ひとつひとつの運動自体は見慣れたものに過ぎない。
 このときスポットは、技術論的には高度な機械工学によって踊っているが、認識論的にはボキャブラリーの集合体、大きな言語体系との接続によって踊っている。運動そのものが既存のデータベースからの引用で構成されているだけでなく、それがダンスであるという揺るがない認識もまた、データベースを参照することによって成立している。
 他方、オルタは周囲の環境とは高度に関係しているが、いかなるデータベースとも接続されてはおらず、踊る体としては完全にスタンドアローンである。したがって、オルタの身体運用がダンスに見えないとしたら、その理由のひとつはそれが予めダンスであると認められていないこと、つまり我々がそのようなダンスを見たことがないことにありそうだ。
 しかし、まだ何かが足りない。見たことのない身体運用をダンスとは呼べないのだとしたら、ダンスの歴史は終わり、ダンスはクラシックなボキャブラリーを再生するだけの営みにとどまるしかない。まったく新しく発生した身体運用が、認識論的な臨界点を超えて、身体外的にも「ダンス」となるための経路がどこかにあるはずだ。
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