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2022.02.04

第7回:ダンス、ウィルス、TikTok
──身体運用の増殖戦略

踊るのは新しい体 / 太田充胤

人形のための産業機械

 なるほど、これはたしかに洗練された機械だが、いったい何をするための機械なのだろう。生身の人間はこの巨大な機械においていかなる役割を担い、どのように奉仕しているのだろう。

 我々はこれまで、ロボットや仮想空間の人形が、踊ることを通じて魂を獲得するやりかたを見てきた。
 ダンスを純粋な身体制御のシークエンスとみなすかぎり、そこに「人間らしさ」やランダムなノイズは要求されない。それゆえ我々は、3DCGモデルが踊っている限りにおいて、彼/彼女がモーションデータを再生しているのか、モーションアクターに踊らされているのかを見分けることが原理的に難しい。ただ振付を踊るだけならば、モデルを動かしているのが生身の人間であれ、AIであれ、単なるモーションデータであれ、大した違いはない。魂は自律的に情報を生成する必要はなく、そのたびごとに精巧に作られてさえいればよい。日々無数に産生されインターネット上に流通するモーションデータによって、モデルたちは新鮮な魂を維持することができる。
 本連載でここまで扱ってきたモノたちを振り返ってみると、人形が人間圏のなかに召喚されるとき、大きく分けて3つのやりかたがある。自ら情報=身体運用を生成すること(VTuber、ディジエント、オルタ)。流し込み再生であっても新しい振付を踊り続けること(MMD、スポット、デジタルシャーマン)。あるいは逆に、まったく動かないこと(古典的人形)。金森修において動かない人形に魂が見出され、自動人形があまり評価されなかった理由も、斎藤環において動くCGの拙さが批判された理由も、今なら同じ次元で理解できる。動き出さないことで、人形は魂を宿したままでいられる。
 こうして一度人形の中に吹き込まれたテンポラリーな魂が失活する局面とは、「ネタが割れる」ときである。身体運用が意志ではなくランダムなアルゴリズムで生成されていることを直観的に理解したとき。ダンスがモーションデータの反復再生であることが露呈したとき。前者は新しいやり方で踊れないことによって露呈する。本稿ではこれを「魂の減衰」と呼んだ。後者はおなじモーションデータを踊っている別の体を見た時に露呈する。前回我々は、これに「魂の希釈」という呼称を与えた。

 どうやらTikTokは、CGモデルに新鮮な魂を供給するのと同じやり方で、生身の人間にも魂を供給している。ただし、CGモデルの挙動と人間との挙動にはいくらか違いもあるらしい。というのも、CGモデルが新鮮な魂を欲望するのに対し、人間たちは進んで魂を希釈しているように見えてならないからだ。
 おそらくTikTokにおいては、流し込んでいるネタがあらかじめ割れていることこそがむしろ価値なのだ。データベースの内部にとどまり、見る者を裏切らないこと。すでに多くの人に使いまわされ薄まりきった魂を吹き込んで人形化すること。魂を希釈し身体をモノに近づけていくこと。生物から静物へと変化して後景化すること。
 実際、彼女たちはダンスを鑑賞してもらうために撮影しているのではなく、画面の中に存在するために踊っているのではないかとさえ思わせる。しばしば見られる例は、踊っているユーザーを後景として、前景にテロップの文字情報が挿入されているケースである(このテロップの挿入もまた、アプリケーション内部で簡単に完結する)。ここでは文字情報のほうがメインコンテンツで、体はそれに付随する──しかしそれでいて何の関係もない──サブコンテンツにすぎない。まさしくBGMがそうであるように、いまやダンスとそれを踊る体が配置されているのはバックグラウンドなのである。したがって、ここでダンスがメインコンテンツを邪魔することは許されないし、ましてドアラのように裏切りに満ちていることなどありえない。
 ある意味では、それは一種のキャラクタービジネスなのかもしれない。地方の土産物屋に行くと、必ずハローキティやキューピーが名産品や観光名所の被り物をして並んでいる。強い固有性を持ったキャラクターは交換可能なミームを受け入れる器となり、キャラクターとミームの組み合わせがひとつのパッケージとして成立する。この構図はTikTokだけでなく、我々が見てきたMMDにおけるCGモデルとモーションデータの関係にも酷似している。
 想像するのはこんな光景だ。無数のキャラクターがベルトコンベアの上に並んで流れ、その一体一体に魂が流し込まれていく、そんな大きな機械。時々魂を実装した状態で流れてくるキャラクターからは、その魂が抜き取られて機械にストックされ、別のキャラクターたちにちびちびと分け与えられていく。ベルトコンベアに並ぶキャラクターは、CGであれ生身の人間であれかまわない。両者は巨大な機械によって、いま同一平面上に立っている。

 さて、あなたはまたしても、くだらないと思っただろうか? たしかにそうかもしれない。こうして流し込まれた複製の複製の複製は、それ自体が鑑賞に耐えうるようなものではない。
 しかし、あなたがもしその点を指してくだらないと考えているならば、発想を180度転換すべきだろう。私の理解では、ここはダンスを鑑賞するための回路ではなく、ダンスが人形を媒介して流通するための回路であるからだ。
 本稿ではこれまで一貫して、魂を実装する肉の側からものを考えてきた。ここでもう一度視点を変えて、魂の側から問うてみよう。肉をそのように動かす魂にとって肉とはなにか。すなわち、ダンスにとって体とはなにか──。こうして視点を変えれば顕わになるのは、ダンスがインターネットを通じて獲得した、ウィルスのように戦略的な非生命の様相である。
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