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2022.02.04

第7回:ダンス、ウィルス、TikTok
──身体運用の増殖戦略

踊るのは新しい体 / 太田充胤

 

現場から平面へ

 本来、およそ身体芸術ほどインターネットと相性の悪いものはあるまい。
 ダンスは、いやおそらくあらゆる身体芸術は、本来極めてローカルな営みでしかありえない。知の伝達にはその知を再生する肉体と、それを目撃する別の肉体とが欠かせない。それについて語る者もまた、それが再生されている場に居合わせて目撃せねばならない。かくして身体芸術は、原理的に秘密結社のごとき現場主義の立場をとらざるを得ない。
 動画共有サイトはがこの極端に不利な状況をある程度解消したかにも見える。しかしそれでも、映像として流通する身体芸術とは所詮、空間芸術を平面のかたちに切り取ったものでしかありえない。それゆえ他の分野──言語や記号による芸術、絵画や映画のような平面で作られた視覚芸術、音声データ化されうる聴覚芸術──がインターネットから受けてきたような恩恵を、身体芸術だけはいまだ受けていない。
 私が直接見聞きしてきた範囲に限っても、現場主義的な言説には事欠かない。たとえばストリートダンス界隈では、各地のイベントを撮影した動画が連日YouTubeにアップされている。あるとき大きなイベントのMCが、満員のフロアに向かってこう言った。「今日の感動は、今日来たダンサーだけのもんだよな。あとから動画でみた奴にわかったような口きかれるの、悔しいよな。だからどうかよく考えてほしい。ショーケースの動画は撮ってもいい。でもそれをYouTubeにアップするのは、数日我慢してくれないか」。このマイクパフォーマンスはその場では歓声と拍手をもって迎えられたが、その日の夜にはネット上で物議を醸していた(ちなみに動画はその晩のうちにアップされた)。
 パフォーマンスを映像化して流通させてしまうこと自体の是非はさておき、現場主義とはつまりこういうことである。おそらくあらゆる身体芸術において、詳細は違えど似たような言説があることだろう。

 先回りして言えば、すでに読者の脳裏にはこの問題に対するひとつの解が浮かんでいるはずだ。つまり、VR技術の発達によって、身体芸術が要求する現場主義はいずれ完全に無効になるのではないかというものである。
 これはある程度まで正しい。おそらくそうなっていくであろうし、すでにそのような動きがあることも承知している。しかしながら、生身の人間そのものが仮想空間に現れるわけではない以上、身体芸術の現場主義はそうやすやすと棄却できないことになる。現実空間=現場を最上位において模倣する限り、仮想空間の身体芸術は劣化した複製の立場をとるしかない。すでに第5回で論じたように、仮想空間の身体芸術は仮想空間特有のフェティッシュを獲得する必要がある。第3回でテッド・チャンの「テトラブレイク」を引きながら示した肉体の乗り換えや汎用化、かたちの多様化は、まさしくこの文脈で理解すべきアイデアである。いずれにせよ、これらは身体芸術の現場を代替しない。

 とはいえ、ダンスだけがいつまでもインターネットとの相性の悪さを放置しておくわけはない。メディアの変化に対する身体芸術の最適化は当然起こるはず、いや、すでになんらかのかたちで起こっている可能性を検討すべきだろう。
 奇しくもと言うべきか、COVID-19を経てダンス公演が映像配信されるケースも一般的になってきた。ただし、ライブ配信や記録映像を見る経験は、本質的に映画やPVを見るのとほとんど変わらない。純粋な身体芸術ではなく、身体を映した映像芸術でしかありえないこれらの形式は、ダンスの現場主義が求めるものを満たしているとは言いがたい。
 ああ、しかし、そういえばこんな例もあった。
 先日、世界有数のダンスカンパニー Nederlands Dans Theater(NDT)がいくつかの記録映像を公開した。その中のひとつに、「SILENT CRIES」と名付けられた作品がある[6]。1987年撮影。動画を再生すると、画面の上半分には黄土色の線が無数に走り、下半分にテロップが表示される。テロップによれば、振付はNDTを長年率いてきたイリ・キリアン。音楽はドビュッシー。ソロを踊るのはキリアンの妻、サビーネ・クップファーベルク。
 黄土色の向こう側に、肌色のレオタードを着て、まるで木製のデッサン人形のようにつるりとした女性の体が立つ。どうやら画面と彼女との間はアクリル板かなにかで仕切られていて、そこに泥のようなものが塗りつけられているらしい。カメラがズームアウトするにつれ、アクリル板の輪郭が明らかになる。縦長で、高さはサビーネの1.5倍ほど、横幅は広げた両腕よりもやや短い。
 彼女はアクリル板の向こうで踊りながら、泥の一部を拭ったり引き延ばしたりしながら、常に画面を変化させていく。時にはみ出しながらも、概ねアクリル板のフレームにおさまって踊る。カメラは彼女を画面の中心に据えて揺れ動き動き続けるものの、常にアクリル板を正面視しつづける。カットはほとんど割らず、長回しが続く。

 わざわざ言わなくてもお気づきだろうが、今日の鑑賞者がこの作品からTikTokを連想してしまうのは無理からぬことだろう。ダンサーとカメラを仕切るアクリル板のフレームはそのままスマートフォンのフレームであり、塗りつけられ変化しつづける泥の模様はフィルターとエフェクトだ。平面のためのダンスを真正面から捉えたカメラ。踊る体と観る者のあいだを隔てる編集可能な平面。踊る体を縦長に切り取るフレーム。すべてが奇妙なほど符合している。
 「SILENT CRIES」でカメラが切り取る平面≒アクリル板のフレームは、観客が現場で見ている景色とほとんど同じと言って差支えあるまい。こうして体とカメラとの間に平面を介在させて撮影したダンスは、今日映像データとして流通していてもさほどのロスを感じない。奥行きを前提としたダンスは奥行きを失えばその分の熱量を失う。映像として複製されたときに損失を免れることができるのは、はじめから奥行きのない振付だけである。
 思えばアニメのために作られたダンスもまた、まさしくそういう振付だったはずである。平面で撮影される「踊ってみた」が、同じく平面であるアニメの模倣に収束したのは必然であったわけだ。おそらくはこの平面こそが、流通する身体芸術がとり得るもうひとつの戦略なのだ。
(→〈6〉へ)