映画批評家・須藤健太郎さんによる月一回の映画時評(毎月初頭に更新)。映画という媒体の特性であるとされながら、ときに他の芸術との交点にもなってきた「編集」の問題に着目し、その現在地を探ります。キーワードになるのは、デクパージュ(切り分けること)とモンタージュ(組み立てること)の2つです。
今回は、東京都写真美術館で開催された展覧会「出光真子 おんなのさくひん——ある映像作家の自伝」について。日本の実験映画およびビデオアートの先駆者の一人である出光の作品群、その「自伝」としてのありかたを探ります。

- 展示風景 撮影:中川周
6月18日から9月21日の3か月にわたって、出光真子の大規模な回顧展が東京都写真美術館で開催された。アメリカ合衆国への滞在を経て1960年代より制作を始めた、日本の実験映画およびビデオアートの先駆者である。「1940年生まれ」とあるのを見て、ふと『A Window of Memories』に出ていた砂子旭子さん(1939年生まれ)と清原磋智子さん(1934年生まれ)がほぼ同世代であることに気づく。
このたびの企画は、展覧会と上映会を通じて、1972年のフィルム作品《Woman’s House》から2004年のインスタレーション《直前の過去》まで、30年余におよぶ計45作品を網羅的に紹介することを趣旨としたとカタログにある。私は出遅れて8月頭に会場を訪れ、その後に何度も足を運んだのだが、しだいにあることに気づくようになった。たしかに、それぞれの作品が個別に完成されていることはホールでの上映に参加するとよくわかる。しかし、その一方で、今回の出光真子展はそれ自体がひとつの作品として構想されている。展覧会が「おんなのさくひん」と名付けられているのがなによりの証拠である。
1973年制作の初のビデオ作品《おんなのさくひん》(英題:What a Woman Made)のタイトルは、2003年に上梓した書籍『ホワット・ア・うーまんめいど——ある映像作家の自伝』でも踏まえられていた。このたびの回顧展は、自らの半生を振り返りながら丁寧に自作解説が披露されていくこの書物とタイトルの上でも重なっていて、自分が手がけてきた作品たちを総体として捉え、そこにひとつのかたちを与えるという点で双方とも同じ地平に立っている。この展覧会自体をいわばひとつの大きなインスタレーションとして見ること。展示作品をひと通りすべて見終えた後は、そんな考えを抱きながら会場内を行き来した。

- 出光真子 《主婦の一日》1977年 東京都写真美術館蔵 ©Mako Idemitsu
作品をほぼ時系列順に辿れるように展示室は構成されているが、来場者がまず目にするのは《主婦の一日》(1977)である。作家本人が出演し、起床する、顔を洗う、洗濯物を干す、買い物をする、皿を洗う、そして就寝するといった、毎日繰り返される「主婦の一日」の情景が並べられる。しかし、どの情景にも、目を大写しにしたビデオモニターがつねにかたわらにある。作品内にモニターを登場させ、画中画の入れ子構造を作り出す手法はのちに「マコスタイル」と呼ばれるようになり、彼女のビデオ作品のトレードマークとなる。《主婦の一日》を起点に据えるこの展覧会は「主婦」——家父長制下で女性が強いられる立場を象徴するもの——という主題に加え、こうしたマコスタイルの徴の下に置かれるということだ。フィルム作品で二重焼き付けが好まれるのも、《アニムス》シリーズ(1982)でクロマキー合成が使われるのも、インスタレーション《直前の過去》が紗幕を使って映像を重ね合わせるのも、次元の異なる複数のイメージを組み合わせるという点で、このマコスタイルの変奏と考えられる。
《主婦の一日》が観察する目の役割をビデオモニターに担わせているのは、ビデオアートの歴史に照らしてやはり興味深い符牒である。「ビデオ(video)」とは、もともとラテン語で「私は見る」を意味する。すでに拠点を日本に移していた彼女がかの地の動向を意識していたとは思わないが、これはたとえばヴィト・アコンチの《プライングズ》(1971)に対するすぐれた応答をなしている。男(ヴィト・アコンチ)が目を閉じる女(キャシー・ディロン)のまぶたを強引に開けようとする様子を17分にわたって記録したビデオ作品である。「覗き見る」と「こじ開ける」を意味する「プライ(pry)」という動詞をタイトルに据えるこの作品が見せるのは、男が女の内側を覗き込もうとする姿であると同時に、男が女に見ることを強制しようとする姿である。アコンチは《センターズ》(1971)——右腕を前方に伸ばして視線に重ね、カメラの中央を指差す作品——に引き続き《プライングズ》でも「見ること」を主題に据えるが、それはつねに命令や強制といった暴力とその不可能性の戯れとして作品化される。出光真子はあたかもそんな男の発想を受け流すかのように、自ら進んで目を大きく見開き、家の中で展開する女の日常をさらけ出す。
その先に少し会場を進むと《Make Up》(1978)が待ち構えていて、ビデオモニターを鏡に見立てて化粧をする出光の姿が映されている。これまた「ナルシシズムの美学」(ロザリンド・クラウス)を軽やかに脱臼させるユーモアに満ちた作品だ。モニターは鏡であって、鏡ではない。モニターに映るのは左右の逆転しない正像であり、モニターにはリアルタイムで映像が映るといってもそこにはわずかに時間のずれがあるからである。

- 出光真子 《清子の場合》1989年 東京都写真美術館蔵 ©Mako Idemitsu
マコスタイルには、「デクパージュ/モンタージュ」の問題が見事に結晶している。《主婦の一日》は「目」と「行為」とを並列してモンタージュするが、それは自己を「見る主体」と「見られる客体」に切り分けるというデクパージュの操作を経たうえである。インスタレーションの《祖母・母・娘》(1976)でも《女たち》(1977)でもモニターは自己を省みることを促す装置として機能していた。出光真子は《シャドウ》シリーズ(1980–82)で登場人物の「内的情報」をモニターに映すことを思いつき、《英雄ちゃん、ママよ》(1983)では母親のファンタスムをVHSの映像に託してみせると、以来ますます内と外を切り分け再結合させるこのスタイルを洗練させていく。
《グレート・マザー》シリーズ(1983–84)や《やすしの結婚》(1986)といった戯画化された家族ドラマから、女性アーティストをめぐってミソジニーの「紋切型辞典」をなす《清子の場合》(1989)や《加恵、女の子でしょ!》(1996)にいたるまで、出光真子はビデオモニターに不可視のイメージを次々と映し出す。あるときは主人公の超自我や無意識。あるときは抑圧された過去の記憶。あるときは別の時間に展開した出来事。そして、あるときは声にならない心の叫び。《加恵、女の子でしょ》や《Still Life》(1993–2000)では、モニターに閉じ込められた女の姿が映される。このときモニターは「家」という牢獄の縮図と化している。出光真子はかくしてビデオモニターを用いて複数のイメージを並置し、画面上で展開する物語をかならず別のイメージと関連づけてみせる。

- 出光真子 《英雄ちゃん、ママよ》1983年 東京都写真美術館蔵 ©Mako Idemitsu
マコスタイルによるイメージ同士の関連付けは、今回の回顧展では音声を通して変奏されている。展示室内は半透明の紗幕か黒い薄手のカーテンによって区切られるだけで、一部の作品の音声が他の作品に重なって聞こえてくる。会場内である作品を見ていると、複数の作品が音声を介して呼応し合っていくさまに立ち会うことになる。
とりわけよく響いていたのは、フィルム作品《At Any Place 4:ヨネヤマ・ママコ作「主婦のタンゴ」より》(1978)である。ヨネヤマ・ママコが家事の動作をパントマイムとして演じながら、ビゼーの『カルメン』の替え歌を歌っている——「あけてもくれても台所で皿を洗う/結婚するということは一生食事を作ること/(……)/男を愛することは自分を無くすこと/もっと他にわたしはやりたいことがあったんじゃないかしら」。《英雄ちゃん、ママよ》から《やすしの結婚》にいたるドラマ仕立ての作品が並べられた空間に、彼女の「イライラハー」が通奏低音のように鳴り響いている。出光真子は1980年代以降ビデオを手にして旺盛に家庭劇を撮り上げていくが、それにはヨネヤマ・ママコとの出会いが決定的だったことが推察される。出光によるホームドラマはあたかもパントマイムのようにデフォルメされていながら、ユーモラスであると同時に恐ろしいほどリアルである。まさにヨネヤマ・ママコ譲りといえる。
なお、《英雄ちゃん、ママよ》は一連の作品同様ヘッドフォンでも聞けるが、スピーカーからの音声が比較的大きめに設定されている。順路を先に進み、紗幕の向こう側へと移動すると、母性についての考察が展開されるインスタレーション《Real? Motherhood》(2000)がある。このインスタレーションを見ていると、「英雄ちゃ〜ん」という、あのなんとも形容しようのない母親の声が聞こえるというわけだ。
出口付近の空間構成に接して、最後まで秀逸だと思わせられた。《父の情景》(1981)を映すモニターに若干向かい合うかたちで、《たわむれときまぐれと》(1984)と《ざわめきの下で》(1985)がプロジェクターで投影されている(3作ともフィルム作品)。両親に捧げられた空間が設けられ、展示はこうして締めくくられるのかと反芻をしていると、他の作品の音声がすぐ隣から聞こえてくる。この出口に繋がる空間は薄膜一枚隔てて入口付近に置かれた《おんなのさくひん》と隣り合っているのだ。父親、母親、そして出光家について、出光真子本人による述懐を前にしながら、「女のお子さんです。次はきっと男の子ですよ」から始まる、女を抑圧する言葉が淡々と述べられていくあのナレーションが始終耳に入ってくる仕掛けなのである。

- 出光真子 《おんなのさくひん》1973年 東京都写真美術館蔵 ©Mako Idemitsu
展覧会「出光真子 おんなのさくひん——ある映像作家の自伝」
会場・主催:東京都写真美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団)
会期:2026年6月18日(木)―9月21日(月・祝)
公式サイト:https://topmuseum.jp/exhibition/5417/
バナーイラスト:大本有希子
