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2026.11.04

第29回 身振りの一致——第31回釜山国際映画祭レポート

映画月報 デクパージュとモンタージュの行方 / 須藤健太郎

映画批評家・須藤健太郎さんによる月一回の映画時評(毎月初頭に更新)。映画という媒体の特性であるとされながら、ときに他の芸術との交点にもなってきた「編集」の問題に着目し、その現在地を探ります。キーワードになるのは、デクパージュ(切り分けること)とモンタージュ(組み立てること)の2つです。
今回は特別回として、第31回釜山国際映画祭レポートをお送りします。映画祭という場に集まったそれ自体としては何の関係もないはずの複数の作品、そのあいだに生じている偶然の連関を「身振りや仕草」から探ります。

第31回釜山国際映画祭公式ポスター

 今年も釜山に行ってきた。ヨーロッパの国際映画祭で評判を呼んだ作品に加え、韓国をはじめアジア各国の若手の作品が見られることに魅力を感じている。また、客層が若く、若者世代に開かれた映画祭という印象があり、その活気に触れられるのもいい。昨年は日程をうまく調整できず、2泊3日の滞在で4本しか見られなかった。今年は早めに予定を整え、会期の後半にかけて参加し長篇19本を見ることができた。うち韓国映画は7本、その他のアジア映画は4本である。
 映画祭では朝から晩まで連日何本も映画を見ることになり、ひとつひとつの作品にしっかり向き合うのは難しい。だが、そのかわりに作品をまとめて見ることで、どれも新作というだけで何の関連もないはずの作品たちが頭の中で関係し合っていくことになる。もちろん同時代の空気を吸い、同じ主題を扱っていることもあるが、それ以上に、たとえば共通する身振りがあったり、近しい構図が使われていたり、似たような場面が演出され、そこに似たような意味が担わされていたりして、作り手の意図とは無関係に細部を通して作品間に連関が生まれていくのである。
 今回は、初日に見た三作で同じ仕草が続けて繰り返されて、私の映画祭が始まった。というわけで、ここでは共通する身振りや仕草を軸に2、3本ごとに纏め、それぞれの所感を書いてみたいと思う。なお、製作年は断りのないかぎりすべて2026年である。

 

ユン・ダンビ『以前の世界』

 

服の匂いを嗅ぐ
——ユン・ダンビ『以前の世界』、ジュディット・ゴドレーシュ『ある少女の物語』、アンドレア・パラオロ『エコーチェンバー』

 ユン・ダンビ『The World Before(以前の世界)』(韓国、「今日の韓国映画」部門)とジュディット・ゴドレーシュ『A Girl’s Story(ある少女の物語)』(フランス、「ガラ・プレゼンテーション」部門)はともに少女の初恋を中心に据えるが、憧れる少年から服を借り、その匂いを嗅ぐ描写がいずれにも見られる。ひと夏の思い出という点も共通している。ただし、『以前の世界』が少女を欲望の主体とするのに対し、『ある少女の物語』が焦点を当てるのは男性の欲望の対象となり、性的に搾取される少女である。二つの作品はまったく対照的に映る。
 2024年、ゴドレーシュは未成年時に性暴力を受けたとしてブノワ・ジャコとジャック・ドワイヨンの二人を告訴した。彼女がこのたびアニー・エルノーの『少女の記憶』(2016)を原作とした意図は明確だ。『少女の記憶』は、エルノーが1958年18歳時に受けたサマーキャンプでの経験をもとにした自伝的小説。この時に受けた傷と恥の経験は人生に大きな影響を与えながら、彼女はそれを言葉にするのにほぼ60年の歳月を要した。性暴力を恋愛と信じ込んだ。しかし心身には不調が訪れつづけた。エルノーが呼び起こす記憶は、30年以上の時を経てはじめて告訴に踏み切ったゴドレーシュにとって他人事ではなかっただろう。彼女はさらに主役を自分の娘(テス・バルテルミー)に演じさせる。『ある少女の物語』はいわば三重の自伝として編み上げられている。
 さて、服の匂いを嗅ぐのは少女だけではない。アンドレア・パラオロの『The Echo Chamber(エコーチェンバー)』(イタリア、「アイコン」部門)では、売れっ子音楽プロデューサーの男が訪問医の残したマフラーを匂いを嗅ぎながら自慰に耽るのだから。ベルナルド・ベルトルッチの遺稿脚本を映画化したという本作。『恋する惑星』(王家衛、1994)をおじさんの妄想で膨らませると、たぶんこうなる。ベルトルッチにさらに汚名を着せたいのかと、製作意図が気になった。

ジュディット・ゴドレーシュ『ある少女の物語』

 

海に浸かる
——イム・ハヨン『ビーチ・フィクション』、グエン・ホアン・ディエップ『1982』、ボティル・アブドゥラフモノフ『ヒロル』

 島を舞台にするユン・ダンビの『以前の世界』には少女と少年が海に浸かる牧歌的なシーンがあった。物語の空白地帯として海。イム・ハヨンの『Beach Fictions(ビーチ・フィクション)』(韓国、「コンペティション」部門)はそれとは逆にドラマの要となる箇所に海を配置している。
 イム・ハヨンは1998年生まれで、今作が彼女の初長篇。見ながら「ホン・サンス以後」という文句が頭をよぎる。主人公は友人たちの噂話に嫌気が差し、海辺の街に逃避してきた一人の女。彼女は路上でマジックを披露する男と出会うが、彼は地元では男娼と噂されている。人物の設定をそのままに、微妙に異なる話が二回繰り返される。思わず『正しい日 間違えた日』(2015)を想起する人が多いはず。だが、仕掛けの面では影響を受けつつも、演出の面では逆を行く。一貫して真面目なのだ。クライマックスに「夜明けの海に泣きじゃくりながら入る」場面が用意されているといえば、この力の入りようが伝わるか。
 奇しくも、グエン・ホアン・ディエップ『1982』(ベトナム、「ヴィジョン」部門)の終盤にも夜明けの海に入っていく場面がある。だが、記憶の断片をモザイク状に散りばめたような構成を持つこの作品にあって、そこにドラマの生じる余地はない。10年ぶりに映画を撮ろうと画策する女性がいて、そこに家族の問題が絡む。一回見ただけでは大枠くらいしか把握できず、不思議な感触の残る作品だった。監督は1982年生まれで、2014年に初長篇『どこでもない空中で羽ばたく』を発表して以来の2本目が今作だという。
 父への反逆が国家への忠誠につながり、規範的なセクシュアリティへと回帰するかに見える結末に疑問が残ったボティル・アブドゥラフモノフの『Hilol(ヒロル)』(ウズベキスタン、「コンペティション」部門)。内陸国のウズベキスタンに海はなく、目の前に広がるのは広大な大地と砂埃ばかりだが、井戸に溺れるくだりが転換点に据えられている。あたかも井戸が再生の海。

イム・ハヨン『ビーチ・フィクション』

 

ベンチで泣く
——シン・ソン『まだ何も起こっていない』、アンゲラ・シャーネレク『妻が泣く』

「ホン・サンス以後」といえば、シン・ソン『Nothing Has Happened Yet(まだ何も起こっていない)』(韓国、「ヴィジョン」部門)は照れもせずそれを地で行く。『自然は君に何を語るのか』(2025)と同じく、ハン・ソングクとカン・ソイにカップル役を演じさせているのだ。複数のエピソードを連ねるオムニバス形式の構成もホン・サンスを彷彿とさせる。登場人物たちの服装の色を揃えて遊ぶのは、エリック・ロメールの『友だちの恋人』(1988)に由来するはず。近所のベンチに座り、手を合わせて目を閉じると、未来が見えるという女性の話。
 見たくはないのに、未来が見えてしまう。そして彼女は涙を流す。なんてことない仕草なのだが、女性がベンチで泣くことをタイトルに掲げた映画を前日に見ていて気に留めてしまった。アンゲラ・シャーネレクの『My Wife Cries(妻が泣く)』(ドイツ/フランス、「アイコン」部門)である。事故に遭った妻を迎えにいくと、そのショックからか彼女はベンチで急に泣き出す。しかし、「泣くこと」はあくまで「語ること」の前触れである。前作『ミュージック』(2023)から打って変わった、台詞の横溢。これもまた一種の「歌」であるかのように。

シン・ソン『まだ何も起こっていない』

 

カメラを回す
——ホン・サンス『目の置き所がない』、アイラ・サックス『私の愛する男』、ヨセップ・アンギ・ヌン『海が彼の名を告げる』

 それでは、ホン・サンスの新作はどうなのか。『Nowhere to Lay My Eyes(目の置き所がない)』(韓国、「アイコン」部門)は一見あまりに素直な自作解説である。ここではキム・ミニが映画作家を演じるが、その作品として紹介される短篇はホン・サンス自身の『Small Flower』(2022)に酷似している。『小説家の映画』(2022)の公開に合わせ、ポンピドゥー・センターの依頼で撮られたものだ。このたびの新作はこの短篇を軸とすることで、それ以降の近作の試みをあたかも総括している。それはよくわかる。ただし、劇中理解に苦しむくだりがあり、いまだに頭を悩ませている。
 映画作家が主人公でなくても、カメラを回す行為は映画に頻出する身振りである。たとえば、1980年代後半のニューヨークを舞台にするアイラ・サックス『The Man I Love(私の愛する男)』(アメリカ合衆国、「アイコン」部門)。エイズに罹った役者のジミーをラミ・マレックが演じ、そのカムバック舞台が準備されるが、『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)とは似ても似つかぬこじんまりとした良作だ。ジミーの妹夫婦の息子が祖父母へのメッセージをカメラで撮るくだりがあり、家庭用のビデオカメラが登場する。ジミーはあけすけに自分の性遍歴を語り、思わず義兄が止めに入る。告白を引き出す装置としてのビデオカメラ。
 1990年代、スハルト独裁政権下の学生拉致事件を扱うヨセップ・アンギ・ヌン『The Sea Speaks His Name(海が彼の名を告げる)』(インドネシア、「コンペティション」部門)。「カメラを回す」はないが、「カメラを構える」は作劇の要を担わされている。だが、写真の重要性を訴える構成にもかかわらず、裏切り者のアトリビュートをカメラにしたのは端的に失敗ではないか。

ホン・サンス『目の置き所がない』

 

即席のミュージカルが始まる
——ナンニ・モレッティ『それは今夜起こるだろう』、キム・ミヨン『ある種の探偵』

 早くも疲れが出始めた、参加二日目の夜。ナンニ・モレッティの新作『It Will Happen Tonight(それは今夜起こるだろう)』(イタリア/フランス/スペイン、「アイコン」部門)に接して、元気を取り戻した。底抜けに面白い!
 一度目の結婚に失敗したマテオ(ルイ・ガレル)。その7年後、テニスコートに突如現れたグレタ(ジャスミン・トリンカ)に惹かれ、彼女のことが忘れられなくなる。その7年後、二人は偶然再会。ともに結婚し、子供もいるが、否応なく惹かれ合っていく。そして、その3年後……。くだらないといえばくだらない話なのだが、最後の大団円にやはり涙する。映画も演劇も含めたスペクタクルへの大いなる賛歌。イポリット・ジラルド演じるマテオの父の人柄もよし。
 劇中、ザ・ローリング・ストーンズの《シーズ・ア・レインボー》が流れ、即席でミュージカルが始まる場面があるのだが、そこにはこの映画の幸福さが全面的に展開されている。物語の流れを中断し、これみよがしのフィクションが挿入されるミュージカル場面。それは、まったく作風の異なるキム・ミヨン『Some Detective(ある種の探偵)』(韓国、「ヴィジョン」部門)にも見られた。探偵小説を準備中の作家ヘジュ。彼女は意図せずして次々と知らない人に会うことになるが、その過程で明らかになるのは抑圧され忘却の淵に追いやっていた自らの過去。そんな過去とつながる酒場で学芸会風ミュージカルが始まるのである。楽曲は《Y.M.C.A.》。そのとぼけ具合がよし。

ナンニ・モレッティ『それは今夜起こるだろう』

 

覗き見る
——ラヴ・ディアス『お通しください、ご先祖さま』、アルチュール・アラリ『見知らぬ女』

 気づけば開始後1時間も寝てしまったラヴ・ディアスの『Let Us Through, Dear Ancestors(お通しください、ご先祖さま)』(フィリピン、「アイコン」部門)については再見するまで多くを語るまい。ただ、起きてしばらくすると、真相を覗き見てしまう場面があったのはよく覚えている。覗き見る行為は、アルチュール・アラリの『The Unknown(見知らぬ女)』(フランス、「アイコン」部門)にもあった。
 妹の生活を近くのマンションから望遠鏡で覗き見る兄。エピソードとしては傍系に属すが、ここでズームが使われるのは作品全体の主題系に沿ったものだ。ダヴィッド(ニールス・シュナイダー)は見知らぬ女(レア・セドゥ)と性交するが、一夜明けると体がその女になっている。入れ替わりをモチーフにしたこの映画。すぐさま想起したのは、ミケランジェロ・アントニオーニの双子の作品『欲望』(1966)と『さすらいの二人』(1975)である。監督が意識したかはともかく、写真家を主人公に配し、他人と入れ替わってアイデンティティが探究される点で『見知らぬ女』はこの二作に連なる。ズームを駆使して写真を拡大しても、写真の物質性が浮上するばかりで何も像を結ばない。そんな『欲望』の教えは、核心に近づこうとすればするほど謎が深まる『見知らぬ女』に浸透している。アントニオーニが緩慢な自殺を描くとすれば、アラリが示すのはそれ以後の光景である。すっかり見入ってしまった。

アルチュール・アラリ『見知らぬ女』

 

仲違いした人に謝罪する
——チョン・ジヘ『フルムーン』、デヴィッド・ロウリー『マザー・メアリー』、メネシュ・ラースロー『ムーラン』

 友情にも恋愛にも喧嘩と仲直りはつきものである。チョン・ジヘ『Full Moon(フルムーン)』(韓国、「ヴィジョン」部門)とデヴィッド・ロウリー『Mother Mary(マザー・メアリー)』(アメリカ合衆国、「アイコン」部門)に共通するのは謝罪する場面があること。
 学園ものの定型を押さえた『フルムーン』は、謝罪を経た後に文化祭を用意し、舞台となる体育館にあらゆる要素を集合させて昇華させる。昔からの友人と新しい友人。ダンス部と天文学部。偏見をなくして親を受け入れる。すべては学園バンドの演奏にのって。
 一方、アン・ハサウェイをポップスターに、ミカエラ・コールをその元恋人の衣装デザイナーに配する『マザー・メアリー』はまさにやりたい放題の快作だ。見所は数多いので、ここでは一つだけ。音楽なしで踊るアン・ハサウェイ、その息づかいと足音の迫力。ちなみにこの映画では、2回謝るというのがポイントである。
 はたしてメネシュ・ラースロー『Moulin(ムーラン)』(フランス、「アイコン」部門)に謝罪の場面があったかどうか。ジル・ルルーシュ演じるジャン・ムーランには『影の軍隊』(1969)のリノ・ヴァンチュラの面影が重なる。とはいえ、レジスタンス運動にチームワークを見るジャン゠ピエール・メルヴィルとは異なり、メネシュ・ラースローはひたすら個人の英雄化へと邁進する。仲間の誰もが裏切るなか、信念を貫き通すムーラン。謝罪は弱さの表明でしかない。歴史家の評価が気になるところ。

デヴィッド・ロウリー『マザー・メアリー』

 

屋外で用を足す
——オ・セヒョン『ベーラー』

 オ・セヒョン『Baler(ベーラー)』(韓国、「ヴィジョン」部門)は、独特の雰囲気を湛えた作品だった。妊娠を機に仕事を辞めた独身の女性が主人公で、そこに農場の高額バイトの誘いが入る。
 赤子の誕生にカタルシスを託さない作劇法に顕著なように、『ベーラー』はいかにも劇が発生しそうな状況を整えながら、ことごとくそれを脱臼させていく。男ばかりの農場だが性的な視線が向けられることはなく、かといって仲間扱いされるわけでもない。集団に溶け込むのでも孤高を貫くのでもなく、ただそこにいるという主人公のあり方は、この映画自体の立場を表すかのようだ。印象に残ったのは、トラクターの車内や草陰といったトイレ以外の場所で用を足す場面が句読点のように随所に配されていたこと。過剰な意味づけがなされることもなく。

オ・セヒョン『ベーラー』

 

第31回釜山国際映画祭
会場:映画の殿堂(釜山シネマセンター)他
会期:2026年10月6日〜15日
公式サイト:https://www.biff.kr

 

バナーイラスト:大本有希子