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2021.05.21

第1回:MMDからVTuberへ
──身体運用の複製・流通・再生

踊るのは新しい体 / 太田充胤

魂、身体の記憶

 身体運用の複製、流通、再生。デジタルとアナログの相互浸透。ミームとしての振付が、まるで伝染するようにして生身の人間と3Dモデルに注がれ再生されること。3Dモデルが生身の人間の身体運用を盗み取って踊り、「魂」を盗み取って実装すること。その網状の関係の中心にいる、特異点としての振付者。

 あらゆる複製芸術と同様に、もはや身体運用も複製し流通することが可能なモノであるのだった。それは、そもそも振付がコピーされ踊りなおされるために存在するという事実とは本質的に異なる事態である。カラオケでの歌唱とCDの再生が違うのと同じことだ。
 流通したモーションデータが、解像度の問題はあれど基本的には完全な複製である(CDのように)のに対し、振付は踊りなおされる過程で必ずダンサーの肉体による制約を受ける(カラオケのように)。かたちは身体運用を制約する。違うかたちが同じ振付を踊ったとして、出力された身体運用にはしばしばばらつきが生じ、視覚的な均質さを得ることは必ずしも容易ではない。大柄で筋骨隆々の男性と小柄で華奢な女性は同じようには歩かない。同じ振付を踊ってもすぐには同じニュアンスにならないし、同じニュアンスで踊っても同じ表現型にはならない。仮にモーションデータのように、ダンサーの関節の角度や筋肉の収縮率を厳格に指定できたとしても、この問題は解決しない。違うかたちが同じように踊るためには、年単位で踊る時間を共有する必要があるような気がする。逆に、かたちのほうを揃えてしまうのが、たとえばクラシックバレエにおけるダンサーの体型のセレクションである。

 他方、留意しなければならないのは、身体運用の再生環境の特殊性である。
 肉体によって踊りなおされることなくただ再生されるモーションデータは、モデルの肉体による制約を受けない。それは完全な複製の状態のまま再生される。しかしそもそも、かたちは身体運用をその発生段階において規定する。オリジナルの肉体を離れ複製された身体運用は、無関係な肉体においてただCDを再生するようには再生されない。結果として身体運用は、人類がいままでに経験したことのない奇妙な乖離を抱え込んでいる。
 それはいわば、大柄で筋骨隆々の男性に小柄で華奢な女性の身体運用をインストールできる技術である。そこにあるのは、無関係な声と映像が結合されて提示されうるようになった時と同様の違和感であろう。たとえば「ジョジョの奇妙な冒険 MMD」でYouTubeを検索してみるといい。もともとは「初音ミク」や同様の10代女性のキャラクターの肉体において練り上げられたモーションデータを流し込まれ、しかめ面の屈強なスタンド使いたちが身をくねらせる文字通り奇妙な光景は、今もネット上でいくらでも見ることができる。

 まあ、こんな例を挙げるまでもなく、モーションデータを流し込まれて動いているだけのモデルが自らの身体を運用しているとはもちろん言い難い。しかし、こうした奇妙なマッシュアップが時に「魂実装済み」として受け入れられるという事実のほうにこだわってみたいような気もする。粘土細工も流し込みも、出力され動画化されてみれば「魂」を伴うように見える。言ってみれば、こうして踊りながら魂を実装するモデルたちは、人間そっくりに振舞うが意識は持たない思考実験上の存在「哲学的ゾンビ」の亜型なのである。
 いったい、「魂」とはなんであるか。それを見てとるのは我々の側である。それが生身の身体のモーションキャプチャであろうと、生身のダンスの複写であろうと、手打ちされたオリジナルのモーションデータであろうと、複製されたモーションデータであろうと、動画の形になってしまえば「魂」の存在可否にはあまり関係がない。それが自らの身体をほんとうに運用しているか否かと、その身体が「魂」を宿しているか否かということの間にも、おそらくはほとんど関係がない。モーションデータを流し込まれたことと生命の息吹を吹き込まれることとがほとんど同義であるとしたら、「魂」とはすなわち、身体のかたちとその運用についての記憶を指すことになる。

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