第6回:VTuberが踊るとき ──代理する肉の流通 | かみのたね
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2021.12.17

第6回:VTuberが踊るとき
──代理する肉の流通

踊るのは新しい体 / 太田充胤

再生と生成、振付と即興

 VTuberにおいて、生身の人間が仮想空間/仮想平面で新しい体を得ることは「受肉」と呼ばれる。これはあくまでも魂の側からみた比喩であって、このとき魂として3DCGを動かすのは生身の人間でしかありえない。しかしながら、視点を変えて肉の側──つまり、3DCGモデルの側──からみれば、魂が人間であれAIであれ単なるモーションデータであれ、大した違いはないように思われる。チューリングテストのように会話や思考を試されたり、日常動作をさせられたりはせずに、ただ振付を踊るだけならば。
 前回すでに見てきたように、平田オリザ的な世界観が徹底された場所においては、ダンスは演劇よりもさらに機械的な身体制御の問題に還元される。「自然さ」、ノイズ、ランダム性、そういうものを振り付ける必要がないからだ。日常動作全般を振り付けるときとは異なり、ダンスを振り付けるときに「自然さ」は問題にならない。まあ、問題になることが全くないとは言わないが、少なくとも振付が「人間らしいかどうか」とか「実写のようかどうか」という尺度で評価されることはない。
 したがって、仮想空間の肉体は踊っている限りにおいて、現実空間の人間を演じる必要から逃れることができる。ダンサーが舞台の上でモノになるのとまったく同じ方法によって、仮想空間で踊る人形はいとも簡単に魂を手に入れる。

 我々にとってやっかいな問題は、このとき人形が使っている魂=モーションデータが、素直に考えれば確定記述以外の何物でもないということだ。あらかじめ決められた運動を流し込まれて再生する彼等/彼女たちの挙動に、ゆらぎの余地や剰余は一切ない。確定記述として挙動するCGがフェティッシュたりうるという現実を前にして、我々は斎藤の議論になんらかの修正を加える必要に迫られている。
 とはいえ実際のところ、魂が確定記述であり固有性を持たないということは、ほんとうに表象される魂の精度にかかわる問題なのだろうか。別の言い方で言えば、モデルのダンスが確定記述の束なのか、確定記述の束に収束しない剰余を持つのかを判別することなど、はたして我々には可能なのだろうか。
 両者の違いは、すでに見てきた範囲で言えば、与えられた情報を再生する機械と、自ら生成している機械との対比に重ねることができるかもしれない。我々はデジタルシャーマンやスポットの挙動が前者で、オルタの挙動が後者であることをすぐに理解することができる。しかし、いささか乱暴なたとえではあるのを承知の上で、この問いを生身のダンサーとの類比で言い換えてみたならば、こういうことにならないだろうか。つまり、我々は振付と即興を鑑別することができるのだろうか。
 振付として上演されているダンスであっても、それが本当に振付なのか、あるいは完全な即興なのか、初見ではわからないことが普通にあり得る。なんとなく即興だろうなと思ったものが本当に即興であることもあるし、2回目を観たらまったく同じように踊っていて驚くこともある。一連の動きのなかにある毛羽立ちやノイズ、あるいは「間」みたいなものは、一見それが即興であることを示唆するけれども、そのノイズさえあらかじめ振り付けられているのだとしたら判別のしようはない。それゆえパフォーマティブな水準においては、振付と即興とのあいだにはほとんど差異がない。
 それが問題となるのは、繰り返し鑑賞された場合のみである。反復再生によって、振付は即興ではなく振付であると確定する。からくり人形の運動は生成ではなく再生であると確定する。ならば目の前で踊っているCGが「徹底した確定記述の集積」であるのか否かは、当該の動画を繰り返し再生したり、同じモーションデータを使っていると思しき他の動画と比較したりしなければ、やはり判断できないのではなかろうか。
 まあ、身の丈を超えた議論はこのくらいにしておこう。なによりこんな風に理屈を並べてみても、あまり納得のいかない読者もいるに違いない。そこでこれから扱うのは、VTuberのダンスである。なぜなら彼等/彼女たちのCGの肉体は事実上、その魂としてモーションアクターを選ぶことも、モーションデータを選ぶこともできてしまうからだ。
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