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2021.07.16

第3回:仮想空間と四本腕のダンス
──かたちが踊る、かたちを換える

踊るのは新しい体 / 太田充胤

新しいかたちで踊る

 知性は知性だけでは成り立たない。仮想空間とはいえ空間上にオブジェクトとして存在する以上、それらはかたちを必要とする。仮想空間において人間がそうするのと同じように、それらもまた3DCGのアバターを与えられ、身にまとっていた。
 アバターには様々なかたちがある。我々のような二本腕・二本足のロボット型から、四足歩行の動物を模したもの、はては二本の触手に三本足のエイリアンまで……。これらの多様なかたちを与えられた魂は、今度は運動を習得する必要に迫られる。仮想空間内を疑似的に設定された物理法則にしたがって移動したり、転げまわって遊んだりするうちに、そのかたちを身体として運用する術を身につけていくわけだ。
 その運動と成長のプロセス自体は、我々人間やあらゆる生命が経験するのとほとんど同じだろう。他方、決定的に違うのは、彼等が別のかたちのアバターにも簡単に乗り換えることができるらしい点である。それはたとえば、二本腕・二本足のアバターで育った魂が、あらたに四本腕のアバターに入るというようなことである。その乗り換えによってもたらされる変化は、単にアバターの見た目が変わるという表面的なものにはとどまらないだろう。
 彼等はその新しい体を使って、踊ることさえできるという。人型のアバターを与えられた「ディジエント」の一人であるジャックスは、四本腕のアバター専用のダンスコミュニティ「テトラブレイク」に夢中になっていると書かれている。特定のかたちの体を使って人工知性がいかに踊るかを競い合うダンスシーン。それはいったい、どのような場だろうか。

 実際に同作をお読みになればすぐにわかることだが、四本腕のダンスの話の本筋とはそれほど関係がない。というか、実はその詳細についての立ち入った描写もほとんどない。世界設計に元づく生々しいディテールの執拗な書き込みは、チャンの作品を特徴づける要素のひとつだ。四本腕のダンスは、こうした無数のディテールのうちのひとつに過ぎない。
 にもかかわらず、四本腕のダンスシーンというイメージは、私の心をとらえて離さない。
 想像してみてほしい。たとえば我々が馬のような四本足の体を手に入れたとして、新しい体ではおそらく歩くことすらままならない。なんとか歩くことに成功したとして、それが流暢なギャロップにまで至るのはずっと後のことだろう。ギャロップする馬の脚がいったいどのように運動しているか、二本腕・二本足の魂では容易に理解できない。ましてや踊ることなんてできるだろうか。
 いや、なにも馬で考えなくてもわかることだ。体のかたちが変われば、それまでと同じように踊ることは難しい。どれだけ優れたダンサーであっても、事故で体の一部を欠損したならば昨日までと同じようには踊れない。他人の体を与えられたならば、やはり自分の体と同じようには踊れないだろう。
 とはいえギャロップとは違って、ダンスならばいくらか希望もある。ギャロップが極めて合目的的な身体運用を目指すのとは異なり、ダンスはそれ自体は無目的的な運動さえ、しばしば事後的に目的化してしまう。私が二本腕・二本足で踊るように四本足の体で踊ってみたとき、たとえその表現型が二本腕・二本足のダンスとは似ても似つかぬものになったとしても、それが馬のダンスを凌駕しないとは限らない。たしかに私の魂は四本足のダンスを知らないが、そもそも私の知るかぎり、馬もまた四本足のダンスを知らない。足を失ったダンサーはしばしば、時間をかけて新しい体で見事に踊りなおす。
 「テトラブレイク」の黎明期において、初めから四本腕のアバターで育った魂は、かたちを乗り換えて間もない他の魂よりも流暢に踊れるかもしれない。しかし長期的には、それらの新参者が四本腕ネイティブよりも劣るとは限らない。むしろ別の身体の記憶を持つ新参者によって、四本腕の体は新しく発見されなおすように思われる。

 二本足・二本腕の我々は、四本腕の体をどう踊ることができるだろう。素直に考えれば、それは腕、あるいは手が果たす目的遂行性の運動が二倍になることを意味する。手振りを中心とした見せ方をするダンスなら、同時に表現できる内容が二倍になる。
 しかし、四本腕の使い方はそれだけにとどまらない。「テトラブレイク」という名前からまず想像するのは、四本腕を駆使したブレイクダンスではないだろうか。四本の腕が発揮する接地機能・支持機能は、二本足のそれに匹敵するだろう。「テトラブレイク」には四本の腕で倒立したまま、腰から下を腕のように振るって踊る流派や、二本腕の我々には想像もつかないようなアクロバットを繰り出す流派が現れるに違いない。こうして四本腕のダンスを二本足の我々が想像する作業は、まるで別種の生物の思考を憑依させるかのような異次元の想像力を要する。
 かたちは魂を規定する。三次元空間で特定のかたちを鋳型として発達した魂が、そのかたちを乗り換えたとき何が起こるか。二本腕の魂が四本腕のかたちに乗り換えた時、残りの二本の腕は魂のどの部分によって動かすことができるか。あるいは四本腕の魂が二本腕のかたちに乗り換えたとき、魂の余った部分は何をするのか。これが、我々がチャンの思考実験から当然想起すべき問いである。そして、この問いに十分に答えるための経験を、人類はまだ有していない。
 仮想空間における身体とは、本来そういうポテンシャルをもっている話題である。しかし、そのような想像力は、SF史上の偉大な作品たちにおいてさえ、十分に発揮されてこなかった。なぜか。これまで仮想空間における身体は一種の記号にすぎず、記号的な全能性を帯びたものとして描かれてきたからである。おそらくそういう記号的身体では、踊るということ自体が我々の知るような意味では実行されえない。
かたちは身体運用を制約する。そして逆説的に、その制約こそが「踊る」という営みを可能にする。魂がかたちを乗り換えるという描写の意味は、この前提においてはじめて浮かび上がる。

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