• Twitter
  • Facebook
2021.07.16

第3回:仮想空間と四本腕のダンス
──かたちが踊る、かたちを換える

踊るのは新しい体 / 太田充胤

記号としての体

 とはいえ、イーガン的仮想空間における人間が、「肉体」を持っているとみなしてよいどうかは微妙なところだ。アイコンという呼称が示すとおり、彼等が身にまとっているのは一種の記号である。アイコンは記号的な万能性を持ち、自由自在にかたちを変えて提示される。かような記号的身体を運用することの意味は、少なくとも我々が肉体を運用することの意味とは違う。
 実際、彼等が現実空間で物理的な体を得た時の戸惑いは大きい。後に「ヤチマ」という名前を手に入れた孤児たちが、いまだ現実空間の地球に住んでいる「肉体人」とコンタクトをとるため、地球に放置された人型ロボットの抜殻に入る描写がある。

 イノシロウは自分の顔面作動装置を試験的に収縮させ、落ち葉やほこりを削ぎ落した。ヤチマは自分の表情をいじりまわした。インターフェース・ソフトウェアは、ヤチマが試そうとしている変形は不可能だというタグを送り返してくるばかりだった。
「立ちあがりたければ、ある程度のゴミはおれがはらいのけてやるぞ」イノシロウはなめらかな動きで立ちあがった。ヤチマは自分の視線に上を向くよう命じ、インターフェースはヤチマのロボット・ボディにそのあとを追わせた。[5]

 ヤチマは関連するすべての物理法則を心得ていたから、自分のアイコンに適切な動作を命じることで、グレイズナーの腕を思いのままに動かすことができた……だが、二足動物が巧妙にバランスをとるさまたげとなるあらゆる動作をインターフェースが禁じていても、ふたりの選択した妥協案では信じがたいほどぶざまにしか動けないのは、あまりにも明白だった。(中略)《コニシ》の市民は自分のアイコンの手に微妙な動きをさせる目的で、先祖の神経結線を残していた──それはボディランゲージ用に言語中枢にリンクされている──が、物理的な物体をあつかうための高度に発達したシステムはすべて、不必要なものとして捨て去られていた。[6]

 彼等はロボット・ボディを使いこなすための知識を、あらかじめインストールしたうえで地球に来ている。しかし、実際に新しい体を使う段になると、その運用はどこかぎこちない。物理空間で動かして機能させるロボット・ボディと、単なる記号として提示されるアイコンとの差は歴然としいている。ロボットの操作に慣れるまでの戸惑いは、かたちが変わったことではなく、かたちが制約として効力を発揮するようになったことに由来する。肉体の制約を受けずに発達した魂には、肉体を扱う部分がないのである。
表示された視覚的なかたちに依存しないデータとしての側面と、三次元空間に「在る」視覚的オブジェクトとしての側面。イーガン的仮想空間における人類は、これら二つの側面をあわせ持っている。

 ギブソンやイーガンが示したような、知性がかたちある肉体に拘束されない言説空間の表象には、ある種の思想が映し出されているように思われる。純粋に知性だけの存在。思考だけの存在。アイコン=記号だけを与えられて身にまとう、思考する点P。言うまでもなく、それらは創作の中にのみ成立する想像力であったが、我々にとって没入型の仮想空間が身近になるつい最近までのあいだ、ずっと支配的であり続けた。
 90年代に一世を風靡した本邦のサイバーパンク漫画、士郎正宗の『攻殻機動隊』では、電脳空間や仮想空間が視覚的に描かれていた。主人公の捜査官たちは、体内に埋め込まれたコンピュータ経由で(「電脳」)、あるいは電極を首の後ろに差し込むことによって(「有線」)、電脳空間に没入する。現実空間の肉体はだらりとして動かなくなり、コマが切り替わると3次元立体や幾何学模様、ネットワークの模式図のようなものがちりばめられた「いかにも」な電脳空間が登場する。ところがこの電脳空間での攻防は、ページをめくっているうちに突然「視覚変換」される。幾何学模様は、のっぺりとした背景に服を着ていないキャラクターの体だけが描かれている「仮想空間」へと書き換えられるのだ。[7]

 のちに同作がアニメ化された時には、電脳空間は完全に三次元的な仮想空間となっていた。没入するとカットが変わって「いかにも」な電脳空間が展開されるところまでは一緒だが、没入したキャラクターがその中を海のように泳いでいたりする。
 視覚芸術では小説とは異なり、電脳空間の中に「在る」ことが視覚的に明示されなければならない。仮想空間に身を置く知性は、具体的なかたちをもって描かれることを要求する。他方、仮想空間に現れた体には、現実空間の肉体も物理法則も、やはり関係がない。その体は現実空間の物理法則を無視して運動し、人物の感情を描写する記号として用いられている。
 『攻殻機動隊』からの影響を隠さないラナ&リリー・ウォシャウスキー監督の映画『マトリックス』(1999年)は、もう一歩進んで「我々が普段過ごしている世界こそが仮想空間だった」という設定で当時世間の度肝を抜いた。現実空間の人類は、実は高度に発達した機械に飼われていて、養育ポッドの中で丸くなってコードをつながれ、生まれてから死ぬまで仮想空間に没入したまま過ごす。主人公一派は、真実に気がついた「目覚めた」人として文字通り仮想空間から離脱し、現実空間と仮想空間を行き来しながらレジスタンスとして機械と戦う。
 これまた興味深いことに、目覚めた者たちはそこが仮想空間であると気がつくことを通じて、超人的な身体能力や格闘技術を手に入れ、ついには生身で空を飛べるようにさえなる。仮想空間とはいえ、そこを現実空間だと信じている人間たちの体は物理法則に支配されている。しかし本来、物理的な肉体と異なり、記号的身体の運用に課せられた制約は非常に小さい。物理法則自体が仮想的に作られたものだと気がつきさえすれば、それを無視していかなる身体表現をすることも可能になるというわけだ。
(→〈5〉へ)