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2021.07.16

第3回:仮想空間と四本腕のダンス
──かたちが踊る、かたちを換える

踊るのは新しい体 / 太田充胤

データとしての人類

 SFはこれまで、仮想空間で活動する人間を繰り返し描いてきた。
 サイバーパンクの祖、ウィリアム・ギブスンは、『ニューロマンサー』(1984年)で電脳空間(サイバースペース)への「没入(ジャックイン)」を描いてみせた。「サイバースペース(Cyberspace)」という語は、この時初めて使われたとされる。主人公のケイスは頭に脳波計の電極を装着し、「マトリックス」と呼ばれる電脳空間に入ったり、「擬験(シムステイム)」と呼ばれる技術で別の人間の身体感覚を経験したりする。
 今読むと非常に面白いのは、没入状態に入るケイスは目の前に「操作卓(デッキ)」と呼ばれるコンソールを置き、マトリックスにいながら現実空間でデッキを操作したりもしていることである。脳波によって電脳空間で必要な運動の大半は実現されるのだろうが、それに加えて現実の肉体による操作も要するということだ。しかしながら、こうして現実の肉体を動かす必要があるにもかかわらず、ケイスは没入することで肉体のくびきから解き放たれると感じているらしい。
 実は本作の冒頭、ケイスは過去に雇い主を裏切った報復により神経を焼かれ、没入ができない体にされている。電脳空間を失った彼のみじめさは、たとえばこんな風に描かれている。

電脳空間(サイバースペース)で、肉体を離れた歓喜のために生きていたケイスにとって、これは楽園放逐だった。それまで腕っこきカウボーイとして出入りしていたバーでは、エリートは、ゆったりと肉体を見下す風があった。体など人肉なのだ。ケイスは、おのれの肉体という牢獄に落ちたのだ。[3]

 ケイスが電脳空間に身を置いているとき、そこに置かれているのが「肉体」ではないのだとしたらいったいなんなのかという点は一考に値する。いや、「身を置いている」などと不用意に書いたが、実はそのような三次元的な比喩自体が的を射ていないのではないか。なにしろその「空間」で行われているのは、実際にはデータの授受や演算であり、身体運用ではない。ギブスン式の電脳空間に「在る」ことは、必ずしも3Dオブジェクトとして空間を占拠することと同義ではない。

 もうすこし新しい事例を見てみよう。テッド・チャンと並んで当代最高峰とされるSF作家、グレッグ・イーガンもまた、仮想空間を生きる人類の姿を幾度となく描いてきた。
 現実空間に肉体を残しながら電脳空間にも存在する『ニューロマンサー』式の没入とは異なり、イーガン式の没入は一方通行である。どういうことかというと、生身の人間をスキャンしてデータ化し、コンピュータの中で走らせるのである。『順列都市』(1994年)や『ディアスポラ』(1997年)のような長編で描かれていたのは、巨大な仮想環境のなかに人類がまるごと移住するという壮大なアイデアだった。彼等の人格は肉体なしで思考し、半永久的に──こういっていいかどうかは議論もあろうが──生きつづける。
 ギブスン式と同様、イーガン式の仮想空間においても、起こっていることはデータの授受や演算であり、それに尽きるはずである。ところが、イーガン式仮想空間において、人類はつねに視覚的に描かれる。イーガンは登場人物がどのような見た目をしているか、どのようなかたちをしているかの人物描写を欠かさない。

いちばん近くにいた市民のアイコン──高さ約二デルタの、ステンドグラスの彫刻に似た、まばゆい多色の人影──が孤児のほうをふりむいた。孤児の入力ナヴィゲーターにもともと組み込まれている構造が、視角をそのアイコンとまっすぐ向き合うよう回転させる。出力ナヴィゲーターはその動きに従うよう強制され、その時点で意図せずして相手の市民の幼稚なパロディになっていた孤児自身のアイコンを、視角にあわせてふりむかせた。市民が青と金色に光る。その半透明な顔が笑みを浮かべ、そしてこういった。「こんにちは、孤児」[4]

 ここで登場する「孤児」なる人物、実は仮想空間の中に移住した人類ではなく、仮想空間の中で偶然生まれた人工知性である(ここでは彼のことを「人間」と呼んでもいいかもしれないが、話が長くなりそうなので割愛する)。引用したのは冒頭、まだ自分が何者かも知らず、見た目さえ定まらない状態の孤児が、他の人間と初めてコンタクトするシーンだ。
 注目すべきは、彼等の外見が「体」ではなく「アイコン」と呼ばれる点である。仮想空間の人類は、アイコンを操作することによってコミュニケーションをとっている。ここではまだ孤児自身のアイコンが定まっていないことが示唆されているが、このあとも孤児は新たに出会う人たちと交流しながら、自らのアイコンを流動的に変え続ける。アイコンは自らの存在とその状態を示す記号として、他の存在に対して視覚的に提示される。
 こうしてみると、イーガン式の仮想空間は、ギブスン式の電脳空間とは明らかに別物である。いや、そもそも「電脳空間」「仮想空間」という二つの概念自体、別のものとして明確に使い分けねばならないことがよくわかる。「電脳空間」とは一種の比喩だが、「仮想空間」は比喩ではなく、そこではデータが常に三次元的に視覚化されている。孤児と市民が視覚的なアイコンの提示を通じてのみ交流することからもわかるように、ひとたび視覚化されたデータたちのコミュニケーションにおいて、視覚以下の水準の情報は存在しないに等しい。言い方を変えれば、彼等は視覚化されたかたちに依存して存在している。これは『ニューロマンサー』のケイスが没入によって肉体から解放されるのとは、実はまったく反対なのである。
(→〈4〉へ)