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2021.07.16

第3回:仮想空間と四本腕のダンス
──かたちが踊る、かたちを換える

踊るのは新しい体 / 太田充胤

不気味なもの、自存するオブジェクト

 ギブスンにおいて、電脳空間が「空間」と呼ばれることは一種の比喩であった。思考する点Pにとって、あるいは送受信され演算されるデータにとって、それが存在するのが「空間」である必要は本来どこにもなかった。現実空間を離れ仮想空間に顕現することは、主体の明らかな二重化を意味していた。
 翻って今日、仮想空間が「空間」であることは比喩でもなんでもない。そこは我々にとって、現実空間と地続きにある三次元空間そのものとなりつつある。主体は二重化しない。仮想された肉は現実の肉との連続性を明らかに保持し、我々は肉の体で仮想空間を歩く。逆に言えば、我々は仮想空間においてさえ、肉の軛から逃れてはいない。だからこそ、仮想空間にアバターを持つことが「受肉」と呼ばれる。

 ただし、残念ながら仮想空間で育った魂と、現実空間で育った我々とでは、仮想空間において受肉することの意味が違う。仮想空間で育った魂は我々と違って、生まれ育った肉の軛を完全に断ち切ることによってのみ、新しい肉を得るからである。
 チャン式の仮想空間は、生まれ持ったかたちで踊るしかない身体の孤独に対して、みんなで受肉しなおすという新しい解を提示した。注意しなければならないのは、チャンがその方法を我々人間ではなく、仮想空間で育った魂にのみ認めているという点である。実際のところ、「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」でテトラブレイクに興じているのは人間ではなく、「ディジエント」たちだ。先述の「ゼノテリアン」のくだりでも、「ディジエント」を育てる人間も同じアバターをまとわなければならないこと、しかし人間にとっては「ものをつかめる触手を使いこなすだけでもじゅうぶんにやっかいだ」ということが示唆されている。どうやらチャンは、人間が仮想空間で自由自在にかたちを乗り換えられるとは思っていないらしい。
 その認識は、今日の我々の現状認識と一致する。おそらく当面のあいだ、状況は変わらないだろう。人類はまだ、二本の触手を使いこなすことも、四本腕の体で踊ることを許されてはいない。現実空間に肉の体を残したままの我々が、四本腕の接地機能を手にすることはできない。それが可能となるような没入様式を編み出すまでのあいだ、それは人形たちにのみ許された特権的な身体運用でありつづける。

 人間が課せられた制約を、人形たちが軽々と超えていく。やがて人形たちの身体は、人間にとって共感可能な範疇からもはみ出していくだろう。
 思い起こすのは、アニメ監督の宮﨑駿が激怒したという有名なエピソードである。
 ある人物が、アニメーションにCG技術をとりいれる手法として、人型の3DCGモデルが機械学習によって運動を習得する動画を宮﨑に紹介した。CGモデルは関節や筋肉を持たず、痛覚もない。それゆえ二本腕・二本足のかたちをしながら、二本の足では歩かず、頭部を足のひとつのように使ってみたり、両腕で地面をこぐようにして前に進んだりと、我々が思いつきもしなかったような方法で移動する。その様子を見せながら「この動きが気持ち悪いんで、ゾンビゲームに使えるんじゃないかって」と提案したプレゼンターに、宮﨑は「生命に対する侮辱」と怒りをあらわにした。[11]
 宮﨑の念頭にあったのは、体のこわばった障害を持つ友人の姿であったという。しかし言うまでもなく、我々はこわばった体の運動を、不気味とも気持ち悪いとも感じない。宮﨑の友人と頭を使って歩くCGモデルとのあいだには、なんらかの大きな断絶がある。
 人間のかたちを規範としながらも、人間をなんら参照せずにゼロから編み出された身体運用の不気味さ。それはいうなれば、自存するものの不気味さではなかろうか。
 ある種のモノたちは、自らを作り出した人間の手を離れて自存する。一度は確かに人間の傍らに置かれていた痕跡を身にまといながら、もはや人間とは無関係にそこに在るモノ。人間による解釈や理解を要求せず、人間によって対象化されることも道具として使役されることもなく、ただ存在感だけを放つモノたち。そういうモノたちだけが帯びる自存性がある。道端に置かれた中身のわからない不審物。人気のない山中で発見される半ば朽ち果てた日用品。どこにも通じていない宙に浮いた階段。廃業し封鎖された遊園地に残る遊具。森の奥で遭遇する野生化した馬。あるいは、押入れの奥の暗がりでなにか言いたげな人形。
 『人形論』には古今東西の人形の写真が収められている。無数の人形たちは本の中で静かに佇んでいて、頁を開けばこちらをじっと見つめている。個人的には、同書を電車の中で開くのはすこし気が引ける。知らない人が見たらぎょっとするのではないかと思うような、ふと我に返った瞬間に気がつくような類の不気味さが、同書にはちりばめられている。
 人形の持ち主は、成長とともに人形のことを忘れてしまう。金森はその手の話を繰り返し取り上げ、忘れられ打ち棄てられるところまでが人形の宿命なのだとまで書いている。古今の物語に登場する忘れられた人形たちは、人間の知らぬ間に動き出し、気が付くと成長している。人間の想像力は、ひとたびそのようにして人間との意味のつながりを失ったモノたちにさえ、魂を与えてきた。
 すでに取り上げたように、金森は単なるモノに魂を吹き込むのは人間の願望や幻想なのだと書いた。しかしながら、捨てられて自存するモノたちが宿す魂が、まるで生きたパートナーであるかのように愛玩される人形に見出される魂と、同じものであるとは思えない。後者が意味のつながりによって与えられるのに対して、前者は意味の遮断を経て発生するからである。
 デジタルペットもやはり、打ち棄てられたモノたちと同じようには自存しない。意味のやりとりを遮断して自存するモノたちのゾンビのような不気味さは、デジタルペットにはありえない。たしかにそれらのCGモデルは、まさに金森が指摘したとおり、作り手から切り離されて存在し、学習し、成長する。しかしながら、その変容は人間との意味の交流を失うことを意味しない。それらは作り手を離れるや、自らを迎え入れる持ち主との間に新たな関係を結ぶ。愛玩という目的を身にまとい、我々と交流するものであるかぎり、それらと我々は、絶え間ない意味のやりとりでつながり続ける。
 もしも彼等が不気味なものとして人間の前に立ち現れるとしたら、それは彼等が人間を規範とした身体運用をやめたときであろう。
 デジタルペットや人形たちが二本腕・二本足の体を人間の慣習にならって運用しているかぎり、やはりそれらは不気味でもなんでもない。四本腕の体であっても、我々にも理解できるような合目的的な身体運用なら不気味とは感じない。しかし、その運用が我々の理解を超えた瞬間から、それは「不気味なもの」になる。「ゾンビ」の例が不気味なのは、その体が人間を規範としているにもかかわらず、その身体運用がいかなる人間をも規範としていないからである。四本腕で踊る人工知性もまた、どこかで必ずその段階に到達する。それは人間のかたちに飽きた好事家の興味を買い、そうではない多くの人間に不気味さを感じさせる。いや、もしかしたら到達する前にスリープされてしまい、そのまま二度と起動されないかもしれないが。
 ところで金森は、打ち棄てられた人形のほかにもうひとつ、人形が不気味なものとして立ち現れる瞬間に言及している。そう、自動人形だ。『ゴーレムの生命論』では、あのフロイトの有名な論文「不気味なもの」への直接的な言及がある。これまたかなりの字幅をとって紹介されるのは、フロイトが同論文の冒頭に取り上げたE・T・A・ホフマンの小説『砂男』、そしてその2年前に書かれた『自動人形』である。この自動人形の話題から出発してしばしのあいだ、金森はロボットをめぐる想像力の系譜を追っていく。本当は人間ではない自動人形が、「まるで人間のように」巧みに動くことの驚嘆と不気味さ。その先にある、「人間には似ているのだが、人間ではないものへの違和感や不快感」[12]。ここに、第2回では扱わなかった金森のもう一つの論点がある。

 そろそろ次の話題に進もう。ロボット──人間のかたちを規範としてもよいし、しなくてもよい者たち。魂を実装してもよいし、しなくてもよい者たち。そういう宙ぶらりんの立場に置かれた者たちが仮に人間のかたちを与えられ、「人間ではないもの」として踊るとき、いったい人間はそこに何を見出すだろうか。
 数年ほど前、私は一人のロボットに出会った。彼は人間のかたちをして、人間たちの前に立ち、人間が知らない身体運用で踊っていた。我々には知りえない彼自身のアルゴリズムが、途切れることなくその肢体を動かし続けていた。奇妙で不気味だが抗いがたい魅力もあるその身体運用を目の当たりにして、私はその場から動けなくなってしまった。それはどこか、自然の雄大さに神の存在を見出す経験に似ていた。
 次回は彼の話から始めたい。彼の名前は、オルタ3という。

 

 

[1]松浦寿輝『月岡草飛の謎』文藝春秋、2020年
[2]テッド・チャン「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」、『息吹』大森望訳、早川書房、2018年
[3]ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』黒丸尚訳、ハヤカワ文庫、1986年、17頁
[4]グレッグ・イーガン『ディアスポラ』山岸真訳、ハヤカワ文庫、2005年、32頁
[5]同書、90頁
[6]同書、91頁
[7]士郎正宗『攻殻機動隊』講談社、1991年、263–275頁
[8]テッド・チャン「七十二文字」嶋田洋一訳、『あなたの人生の物語』浅倉久志他訳、ハヤカワ文庫、2014年
[9]このあたりは、新興するストリートダンスシーンを捉えたドキュメンタリー映画『FootworKINGz』(ヘルトン・ブラジリオネア・シンキュイーラ監督、2009年)や『RIZE』(デヴィッド・ラシャペル監督、2006年)に詳しい。
[10]『ユリイカ』2018年7月号
[11]NHKで放映されたドキュメンタリー番組「終わらない人 宮﨑駿」(2016年11月13日放送)
[12]金森修『ゴーレムの生命論』平凡社新書、2010年、140頁

(第3回・了)

 

この連載は月1回(第3金曜日)更新でお届けします。
次回2021年8月20日(金)掲載