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2021.07.16

第3回:仮想空間と四本腕のダンス
──かたちが踊る、かたちを換える

踊るのは新しい体 / 太田充胤

身体運用のボキャブラリー

 身体運用は、たとえば言葉を扱うことによく似ている。
 ひとつの言葉が発せられれば、それを読点で閉じるまで意味は終われない。同様に、突き出した拳はいずれ引かねばならないし、振り上げた腕はなんらかのやりかたで降ろさねばならない。頭の上にかかげた腕を、どの筋肉を使って、どこを通ってどんな速さで降ろすのか、あるいは降ろさずに次の動きにつなぐのか……無数の可能性のなかで、その身体が今ここで選びうる選択肢のことを、我々は身体運用のボキャブラリーと呼ぶ。
 身体に刻み込まれ記憶されたボキャブラリーは、やがて適切な場面で「口をついて出る」ようにして表出する。ひとつの言葉が発せられれば、そこから引きずりだされるようにして次の言葉が続く。その制御しがたい運動の連続は、やがて話者の「言いたいこと」をはるかに超えて意味を紡ぎだす。結果として紡ぎだされた文章は、話者のうちにあらかじめ蓄積されていた断片の集積とは限らない。これまで考えたことさえなかった意味のまとまりが自らの運動の中に析出する驚きを、我々はしばしば、いや頻繁に経験する。
 ひとつの言葉のあとに続く言葉が何であったか、何ではなかったか、それだけが問題になりつづける。その選択の軌跡が事後的に意味をなす。描かれた言葉の軌跡から感じ取れる語り手特有の息遣いを、我々は文体と呼ぶ。ランダムな言葉の羅列に文体は生じない。言葉が選ばれ、言葉同士が接続されて初めて、そこに文体が発生する。
 この流れるような運動と創造を可能にするためには、ひとつの言葉のあとにいかなる言葉を接続しうるか、という言語感覚を内面化することが必要不可欠である。同様に、ひとつの姿勢と次の姿勢を接続し、運動と運動を接続し、その間に軌跡を描き続けること。それ自体が自己目的化した身体運用の様式を、我々はダンスと呼んでいる。
 その営みは、端的に我々が肉の体を持ち、そのかたちが変化する幅が有限であることに由来する。運動と運動が常に接続されなければならないという制約に由来する。頭の上にかかげた腕が今度は胸の前で差し出されるとき、腕は可動域内のどこかに必ず何らかの軌跡を描く。ばらばらのボキャブラリーの無数の選択肢は肉体の制約によって可能性を絞られ、ようやく一筋の軌跡をなす。

 フロアに1人のダンサーが踊り出る。
 踊り始めるまではほかの体と同じように、音に乗ってただ揺れていただけのその体が、踊り始めたとたんに彼自身の身体を開示する。どのように動くのかを明かしていなかった体が、ほんの1、2小節ほどのあいだに、それ自身の方法を詳らかにする。
 あっ、と息を飲む。巧拙の問題ではない。上手ければもちろんのこと、どれほど稚拙であれ一度は驚く。開示されるのはボキャブラリーでも技術でもなく、あくまでも彼自身の身体である。それがどのように運用されるのかという事実そのものが、彼自身の身体を、魂と肉体が結びつく様式を物語る。
 いまだ踊りださずにそれを眺めているだけのダンサーは、高座の上でいまだ黙ったままの噺家のように、これから繰り出される彼自身の魂のかたちを秘匿している。体がフロアに露出した瞬間、ステージに立った体が踊り始める瞬間、開示された身体を目の当たりにするときの感情は、噺家の口から発せられる第一声を聴く感情の動きにどこか似ている。
 ほとんど肥満体のダンサーの上半身が、見た目にたがわぬ重さで空を打つ納得、あるいは反対に、重力に反して床を浮遊する驚き。小さい体から目算を超えて伸びる腕。長身から伸びる手足が、持て余したように体にまとわりつくさま。身体機能の低下さえ疑うような壮年期の体が見せる、歴史の蓄積された滋味深い手振り。
 身体の発露は群舞でもいいが、ソロならなおよいし、即興ならこの上ない。他の身体と混ざれば薄まる。ルールや振付は、踊る者の身体が十分に発露するのをしばしば阻害する。バレエのような歴史あるジャンルでは、あらかじめ定められた運用の規範が踊る者の体のかたちさえも規定する。選別された同じようなかたちの集団から繰り出される動きは、基本的に同一の様式に属し、巧拙はあれど鬼が出るか蛇がでるかという驚きは少ない。
 とはいえ人間のかたちに大したバリエーションがない以上、どれほど多様なダンサーが踊ってみせようと、身体開示の驚きは徐々に減衰する。二本腕・二本足ならもう見飽きてしまった数寄者が、より強い驚きを求めた先に人間のかたち自体を問い直すことになったとしても、それはまったく不思議なことではない。
 「ディジエント」のヘビーユーザーは、三本足と一本の尾で歩く「ゼノテリアン」にさえ満足せず、さらに奇抜なかたちを求め、我々とは違った物理環境で育つ魂を求めた。私にはその気持ちがとてもよくわかる。
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