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東京狩猟日記/千木良悠子
第5回 東京タワーと海の近い学校で

東京狩猟日記 / 千木良悠子

東京タワーと海の近い学校で

先日母校の大学で、一コマ90分の時間をいただいて、喋ってきた。毎週さまざまな分野で仕事をする人がやってきて「身体」に関して自分の専門分野と絡めて語る、という主旨の講座で、私は演劇について話をした。学生に、芝居の公演のビデオなどを見てもらった。母校の大学は山手線の田町駅から歩いて十分のところにある。久しぶりに駅からの道を、大学校舎を目指して歩いた。

近いようで、意外と距離がある。よく遅刻しそうになりながらここを走ったのだと思い出していた。駅の改札を出て陸橋を降り、しばらく道を行くと視界が開けて、大通りの先に赤い東京タワーがそびえ立つのが見える。東京タワーの近くの大学に通ってはいたけれど、そこまで思い入れはない。蠟人形館やボーリング場には行ったことがあるけれど、遊んだ時の記憶が曖昧だ(今、ネットで見たら両方営業終了していた。ボーリング場は跡地近くのプリンスホテル内に数年前にオープン、パーティーもできるボーリング・サロンとして美しく生まれ変わったらしい)。スカイツリーができてそれなりに人が集まっているらしい今、東京タワーというのは、東京に住む人、あるいはこの都市を訪れる人にとってどんなイメージの塔なんだろう? 「東京タワー」というタイトルのヒット小説もあったけど、私には楳図かずおの漫画『わたしは真悟』が一番に思い浮かぶ。「333ノテッペンカラトビウツレ」(333=東京タワーの高さである333mを意味するらしいと物語の中で臆測がなされる)という名フレーズが登場するあの大感動作は、機械が意志を持ち、「アイ(愛)」を知るまでを描いたSF作品だったし、発表当時1980年代の東京タワーは「日本一高い電波塔」であったわけで、80年代にもそれは最先端の流行スポットではないにしろ、日本の科学技術の結晶、未来へのイメージを掻き立てるような何か象徴的な建造物ではあったはずだ。スカイツリーができて以来、東京都民の深層心理における東京タワーの地位は、下がったのだろうか、それとも別な価値を持つ塔に変質したのだろうか?

分からないけれど、そういえば昨年の正月には、芝公園の中にあるプリンスホテルに行ったんだった。高校の同級生である友人はロンドンから子連れで里帰り中で、久しぶりに会うことになったときに今芝公園にいるからそこまで来てもらっても良いかと言ってきた。着いた芝公園は私の記憶にあるよりも数倍綺麗に整備されていた。「プリンスホテルのラウンジでお茶しよう」と友人が行って、そこでケーキを食べた。まだ新しいホテルのラウンジは人で賑わっており、友人はそこで可愛いハーフの赤ちゃんをあやしながら、親戚のやっているロンドンの会社を手伝い始めた等々、近況を話してくれた。ラウンジの喫茶代は友人の英国人の夫が払ってくれた。ロンドンのホテルでお茶するよりも多分ずっと安いんだろう。外に出るともう日は暮れており、プリンスホテルの建物の傍らにそびえ立つ東京タワーには2017のイルミネーションが輝いて、きらめいて、スパークしている。2017年の始まりだった。「きれいー」と私は素朴にはしゃいで、iPhoneでたくさん写真を撮った。

そうだ、東京タワーはお洒落になったんだった。蠟人形館とボーリング場の昭和を捨てて、スカイツリーの新奇さにも劣らぬ魅力の、ちょっと落ち着いた都心の観光スポットとして、衣装替えをしたのだ。21世紀の到来に煽られるように。別に昭和が恋しいわけじゃないけど、かつては毎日通っていた駅の近くなのだから、知らずに出し抜かれたという気もしないでもない。東京、私のホームタウンなのに、また知らない顔が増えていた。

田町、三田という場所に知っているのとは違う顔があるということには、大学生の頃から気がついていた。あの頃の私の通学経路と同様に、渋谷の駅で山手線に乗ると、恵比寿の飲食店ビルの焼肉屋の看板だとか、目黒の日の丸教習所とか、五反田の風俗ビル、品川の車庫など、雑多で実用的で混沌とした風景を見ながら田町に着くことになる。それは働く人々、労働者にとっての東京の風景なのかもしれない。だが、田町の駅で降りて慶應の三田キャンパスへ歩いているとき、なんとなくこの行き方では三田のことは分からないだろう、正規の道ではない、裏道を暫定的に通らせてもらっているだけだ、という感覚があった。三田キャンパスに通う頃は、もう演劇活動に携わっていて、そちらのほうが面白くなっていたので、大学生活に心から馴染めない寂しさゆえの感覚だったのかもしれないが、それだけではないと思う。私は当時、原付自転車に乗っていて、それで大学に行くことがあった。電車ではなく原付を飛ばして、道路を通じて行く三田は全然違った。

渋谷から三田のある港区に向かって道路で行くとなると、恵比寿、広尾、白金のあたりを通ってひたすら明治通りを真っすぐ行くことになる。私は日本が今より景気の良かった時代に、銀行員の娘として麻布の病院で生まれた。私が子どもの頃に持っていた「東京」のイメージはこのあたりのものだ。六本木だって近いし、じつは東京湾も近い。大学の頃は、お台場の再開発が完成した時期で、バイクや車で当時珍しかったお台場の人工の砂浜を観に行ったりもした。ビルが立ち並ぶ中をどこまでも道が続き、やがて広い海に出る東京。日が暮れればビルの灯りがついて、それは都会の夜景になる。ビルやタワーの上から見たら、宝石みたいだ。それは人々がここに住んでいるよ、ここで働いているよ、という息吹のしるし。

享楽的な夜の遊び場、海辺の土地開発、テレビ局やホテルやショッピングセンターの建設。都市の発展がそのまま私たちの未来に繋がっている。それが、かつての東京のイメージだったのだ。今もそうかもしれない。

でも私は「馴染まないな」と思いながら、たまに原付で、多くは山手線と徒歩で三田校舎に通い、企業に就職していく同級生を横目に地味に文学の本を読んで卒論を書き、裾のほつれたジャージを着て演劇の活動を続け、向いてない飲食店のアルバイトして、「なんで慶應出てるのに就職しなかったの、きみ本当に使えないなあ、良い頭ちゃんと使ってくださいよ〜」と行く場所、行く場所で怒られて鬱になりかけたりして、ただただ年を取って、また大学に戻ってきた。

大学で授業を受け持った日は朝から天気が良く、キャンパスでは青空を背に並び立つ銀杏の黄色が陽に照り映えて美しかった。授業を受けにきた生徒は、最初は少なかったが、講義が始まってじょじょに増え出した。寝ている学生もいたけれど、自分の公演のビデオなんか流すと、わりかし熱心に見てくれたように思った。今の学生たちは東京という地名や、東京タワーなんかに、何か輝かしい都会のイメージを持ったりするんだろうか? 「上海のほうが都会だな、とか、日本みたいな文化や経済の後進国で、今どきビジネスはできないな、とか思っちゃいます」って言われるかも。なんで夏の夜に思いつきで、友達の運転する車で何人かで東京湾を観に行って、誰もいないオープン前のお台場でこっそり花火をするのが楽しかったんだろう。人工の浜に打ち上がったクラゲの死骸を可哀想に花火で焼いて笑っていた。

今の大学生も、誰かの夢見た未来、ときに馬鹿げた都会の発展を、たくさん笑いながら、たまに現実と衝突して焦ったりもしながら、東京で遊んでくれたら良いと思う。そんな遊びの時間に見た夢が、また未来の都市を形成するための部品になるのだ。「きみたち、たくさん夢を見なさい。だって都市とは自然の模造品で、人間の夢だけを材料に作られるんだからね」。そんな台詞をドヤ顔で吐いても良かったけれども、緊張して余裕などまったくなく、私はなんとか用意してきた原稿を読みあげて、初めての講義を終えた。そしてドッと疲れて、よろけながら教室を後にしたのだった。