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第6回 市ヶ谷から覗き見ていたイングランド

東京狩猟日記 / 千木良悠子

 

市ヶ谷から覗き見ていたイングランド

2018年1月半ば、『ボウイ——その生と死に』(サイモン・クリッチリー著、田中純訳、新曜社)という新刊本の出版記念トークイベントに出演した。訳者の田中純先生や装丁家の祖父江慎さんらとデヴィッド・ボウイについて語ることになり、その準備のために彼のアルバムをなるべくたくさん聴いた。同時に、ボウイを聴き始めた、中学・高校時代をなんとなく思い出していた。

小学校六年生の冬に受験をして、翌春、中高一貫の女子校に入学した。半蔵門や四谷の駅の近くにある進学校だ。中間試験や期末試験以外にもしょっちゅうテストがあって勉強は大変だったが、校風としては「自由」をモットーとしていて、制服がなく校則も少なく、その前に通っていた公立の小学校などと比べると確かに随分居心地が良かったように思う。

クラス内は、ギャル・優等生・普通の子・オタクといったタイプ別に棲み分けがなされており、お互い大して干渉し合わないので、争いの火花が散ることが滅多になかった。私は入学当初、強いて分けるとするならオタクグループにいた。ヴィジュアル系バンドが好きになって、似たような趣味で、アニメやマンガに詳しい女の子と、よくつるんでいたからである。ところが、ヴィジュアル系バンドだけでは飽き足らず、日本のロック全般から洋楽へと趣味が広がっていった結果、オタクグループとは袂を分かち、あえて名前をつけるなら「文化系」グループの子たちと遊ぶようになった。「文化系」は当時渋谷系とか呼ばれていた洒落っ気のある音楽を好んで雑誌「オリーブ」を読む、アート志向の強い女子たちだった。

今思えば、私も周りの子たちも、インターネットもなかったのに雑誌を読んだりラジオを聴いたりして、よくもまあ大量の情報を手に入れたものだ。ロック雑誌を読んで、海外のバンドが来日したらライブに行ったりしていたのである。その過程で、デヴィッド・ボウイも聴いた。最初、『ジギー・スターダスト』か何かを聴いて、曲は意外と普通のロックンロールみたいだなと思ったのだが、図書館に『スケアリー・モンスターズ』が置いてあったので聴き、冒頭の日本語の詩の朗読にビックリし、名曲「Ashes to Ashes」に魅了されたのだった。その当時はプロモビデオを見たくてもYouTubeがないから、ビデオ屋でVHSを買うか、レンタルするしかない。砂嵐混じりのテレビ神奈川の音楽番組を録画するか、最新の海外チャートのビデオクリップは「BEAT UK」という深夜の民放の音楽番組を録画して、ようやく抜粋だけ見られるという感じだった。やっとボウイのプロモ集を見られて、そのイケメンぶりを確認できたのは、大学生になってからだったと思う。たぶん渋谷や新宿の大型のTSUTAYAでレンタルしたのだ。中学高校で、これを見ていたらもっとハマっていただろう。だから私はそんなにボウイを聞き込んでこなかった。高校生の私が、歌詞を覚えるほどに聞き込んでいたのは、恥ずかしながらザ・スミスである。モリッシーが雑誌「ロッキング・オン」の表紙になっていたのを覚えていて、これもまた図書館でCDを借りたら、綺麗なギターの音色と珍妙な高い歌声に衝撃を受け、歌詞カードを開いて見て、さらにノックアウトされたのだった。

中学高校の頃の、私の音楽探求の旅を思い返すと、お金もないのによくもまあ一人でいろいろ調べていろんな方法で聴いてたなと感心してしまう。あの頃は情熱に溢れていた。我が校ではキリスト教に基づく教育を施していたので、朝八時すぎに礼拝がある。それから夕方まで授業を受けて、放課後は演劇部の稽古をして……と毎日が超多忙だ。その上で、家に帰る前に渋谷か下北沢に出かけて本屋や中古レコード屋やレンタルCD屋に行き、レンタルCDやラジオの音源をカセットテープに録音して、それをウォークマンで聴きながら翌朝学校に行くのである。雑誌「ロッキング・オン」と「ロッキング・オン・ジャパン」と「オリーブ」の発売日が何より楽しみだった。時代はコギャルブームで、援助交際だのブルセラだのという新語が世間には飛び交い、クラスにはルーズソックスを履いて「合コン」をしているギャルな女子もいたのに、私のやっていたことは、専らラジオのエアチェックである。健気というか、侘しいというか(ちなみにギャルな女子と私たち文化系女子は穏やかな友好関係を保っていた。放課後、ギャルと一緒に総勢十人ぐらいでファミレスに行くこともあった。市ヶ谷のデニーズで十人全員が「ジャンバラヤ」を注文した時のことはよく覚えている。「私、ジャンバラヤ」「私もジャンバラヤ」「じゃあ私は…ジャンバラヤ」と一人ずつオーダーし、店員をビックリさせるという、はた迷惑な遊びをした。演劇的な状況だったな。)

ダサい私服で通学していた17歳の私だって、渋谷センター街で知らない女子高校生に「パー券買いませんか」と声をかけられたことがあるのだ。「パー券?」と聞き返したら、彼女は無言で去っていったが、あれは多分パーティー券の略だったんだな。どんな乱痴気騒ぎが行われていたのか——合コンで彼氏を作ったりする同級生が羨ましかったけど、私には銀座HMVで行われていたレディオヘッドのサイン会に行くことのほうが、より重要だったのである。東京のど真ん中の市ヶ谷に毎日通っていて、世間は女子高生ブームと言われていたのに、スミスだのレディオヘッドだのボウイだの、遠いイングランドの、どっちかというと内向的な人が聞くロックに思いを馳せていた女子高校生、それが私——なんか悲しい!

うちの学校は教員や卒業生によってよく「温室」に喩えられていた。「今は思春期ならではの悩み苦しみがあり、学校を窮屈に思うこともあるだろうが、社会に出れば、なんと安全な場所に自分たちは守られていたのかと気づく。そして今を懐かしく思い、素晴らしい学生生活だったと振り返るだろう」とよく聞かされた。今、市ヶ谷の学校に通っていた女子高生時代を振り返って、素晴らしいかと聞かれると、「うーん、どうでしょう……(長嶋茂雄)」という感じである。

自由を謳っていた出身校だが、やはり偏差値重視で生活態度にもそれなりに厳しいお嬢さん学校ではあった。あの学校の独特な雰囲気は大好きだが、家でロックばっかり聞いてないで、もっと彼氏作ったり遊んだりした方が良かったと思うし、学校外の人、多種多様な人とももっと付き合ったほうが視野の広い人間になれた気がする。外の空気に染まって、不良になったかもしれないが。私が賞賛したいのは、とにかく、女子高生だった自分や周りの子たちの溢れるバイタリティである。今、仕事のあとに映画に行けるかと行ったら、そうそう行けない。ライブも年に数えるほどしか行ってない。きっと市ヶ谷とイングランドは、私の心の中で、一本道で繋がっていて、目を細めればロンドンの霧にけぶったライブハウスの入口が見えたのだろう……インターネットもなかった時代なのに、常時アクセス可能だったわけだ。しかし、全然意味を分かっていないものを、あれほど好きだと思えたのが今さらながら不思議だ。

最近、ブレイディみかこさんの著書『いまモリッシーを聴くということ』(Pヴァイン)を読んだのだが、「えーっ、スミスの歌詞って、そんなことが書いてあったの!」と蒙を啓かれた箇所が何個もあった。私は、イギリスの社会状況についてまったく何も知らぬまま、サッチャー政権批判、階級社会への絶望といった、政治的なメッセージで溢れるモリッシーの歌詞を暗記して歌っていたのだ。誰か懇切丁寧に教えてくれる人がいたら良かったのだが、たとえ当時のロック雑誌に多少そういうことが書いてあったとしても、私にはやっぱり意味が分からなかっただろう。社会的・政治的な文脈を読み取る力というのは、日々のニュースや何やらに接していくうちに、次第に培われていくもので、なかなか一朝一夕では身につかなったりする。自分がいつから政治や社会的な事柄に積極的に関心を持つようになったかなと考えてみると、それはもう大学を卒業してかなり経ってからのことで、特に『だれもが一度は、処女だった。』(「よりみちパン!セ」シリーズ、理論社/イーストプレス)という処女喪失について考えた本を執筆して出版する過程を通してだ。歴史や社会の有り様と自分の有り様が地続きであることを私はその仕事によって学んだ。

私が中学・高校時代を過ごした90年代は、政治や社会について考えたって、何か言ったってしょうがないという雰囲気が今よりもっとあったように思う。まだ80年代だった小学生のころ、私が一人で勉強をしているとクラスメイトから「暗ーい」と虐められた。時代はイケイケドンドンで、バブルが弾けても、人々は綺麗な夢を見たくて物を売って買って、90年代半ばには消費社会の象徴が女子大生から女子高生にまで下がっていって、その結果私の同級生たちは皆ルーズソックスを履いて渋谷センター街を用もないのにウロウロしていた。21世紀に入って、日本はどんどん経済的に貧しくなっていったが、インターネットなんかでワーワーと人が論争し合っているのを見ると、議論は不毛に終わることも多くても、昔よりは「物を考えても良いよ」と誰かに許可されているような気がする。単に私が年を取ったせいかもしれないが。

スミスの「Still Ill」という曲の歌詞の、「イギリスは僕のものだ、僕の生活を保障しろ」という箇所が何を意味しているかだとか、なぜ彼らが「クイーン・イズ・デッド」というタイトルの曲を作ったかだとか、高校生の私に説明してくれる人がいたら良かったねと思う(十代の頃は、「好きなアルバムだけど、女王様なんで死ぬの、カワイソウ」と思っていた)。できればタイムスリップして教えてあげたいけど、言っても「温室」の中で勉強しかしていなかった私に、イギリスの労働者階級の若者の思いは、実感として分からないかもしれない。

でも今、分かったからいいや。長い20年だった。

市ヶ谷・半蔵門あたりには、今も仕事の関係でよく行く。整然とオフィスビルの立ち並ぶ、清潔な街の中で通勤中のビジネスマンや学生とすれ違うたび、彼らも厚いガラスの壁に囲まれた温室の中にかつていたか、今もまだそんな場所にいるのかもしれないな、となんとなく思う。それぞれの心の中は、別の場所、別の国に繋がっているのかもしれない。緑生い茂る皇居の内側のお屋敷はどんな場所に繋がっているのだろう。昔の私は夢の中でしか遠くに行くことはできなかったけれど、今は自分で部屋の扉を開けて、歩いたり電車に乗ったり、飛行機に乗ったりして、どこへでも行ける。あの毎日、ラジオやレンタルCDをカセットテープに録音したり、英語詞を暗記して口ずさんでいた中学・高校時代の私は、ただ単純にロンドンに行って海外アーティストのライブを見たかった、とかそういう気持ちだけではなくて、社会と繋がりたくて、世の中のことを知りたくて、それであんなに訳も分からずバイタリティを燃やしていたのかもしれないなあ、と今はそう思う。