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2019.10.04

最終回「ベルリンの「駆け込み寺」|禅的生活|ボヘミアンの村へ 2019.07.01-07.15」

ベルリン狩猟日記 / 千木良悠子

ベルリンの「駆け込み寺」

7/1(月)
の一年間のベルリン生活で最も辛かったのが、この時期ではないだろうか。ルームシェアの同居人からセクハラを受けた時も、アパートにネズミが出た時も驚いたけれど、住む場所がないというのは、また別次元の不安だ。

ドイツ人の友人には「夏だから、外で寝ても気持ちいいね!」なんて冗談めかして言われた。「川沿いにたくさんスペースあるよ!」って。家がある時はそんなジョークにも笑っていられるけど、私の場合、そもそも温室育ちのせいか、状況が困難になればなるほど、安心で快適な居場所を確保して休みたくなった。

7月から3ヶ月ほど借りるはずだったヘンリエッテ宅の大家からは、相変わらず貸し出し許可の連絡がない。今いる部屋には、明日テレサたちが帰ってくるから、とうとう明日、荷物を持ってここを出なくてはならない。

とりあえず、マヤに手伝いを頼んで、今の私の全財産である段ボール三箱とスーツケースを、ヘンリエッテの家に運びこんだ。お礼に、マヤにクロイツベルクの韓国料理屋で冷麺をご馳走し、周囲を散歩した。

不安とは裏腹に、よく晴れた麗らかな午後である。眩しいくらいおしゃれなカフェでアイスコーヒーを飲んだ。若者に人気のクロイツベルク地区の、バルコニーとバスタブ付き高級アパート。どう考えても予算オーバーだったが、3ヶ月の期間限定だから良いかと借りることにした。そうしたらこの顛末。私には分不相応だと、神様がジャッジしたとしか思えなかった。

私は宿無しになっても、貸主のヘンリエッテに「私は友達の家に泊めてもらいますので、連絡が来たら教えてください」と鷹揚な返事をしていた。良い人のふりをしたかったし、彼女はすでに仕事でノルウェーにいたから、私の代わりに間借り人を探すのも大変だろうと思った。それに、すでに進んでしまっている物事を止めて、進路変更するのには大きなエネルギーがいる。自分でコントロールできない状態に文句を言いながら、誰かが何とかしてくれるのを待っているほうが楽なのだ。(なんだか、今の日本社会みたいだ。)

夕方、人の紹介で、ミッテのシェアアパートを見にいく。貸主は、Marco Wilmsというドキュメンタリー映画の監督で、挨拶をして色々話した。ヒエロニムス・ボッシュの絵が応接間に飾られた美しいアルトバウだったが、空くのは9月末以降だとのこと。今後の状況次第で連絡すると言った。

7/2(火)
レサの家のベッドで目覚め、植物たちに最後の水やりをする。やはりヘンリエッテからの連絡はない。日本人の友人、板垣さんに電話をする。「今から家に行ってもいい?」と尋ねると「何日でもうちのソファに泊まって行って良いですよ」とのこと。

荷物を背負ってシェーネベルクの家に行くと、板垣さんは自宅で日独翻訳の仕事をしていた。私はスマホ片手にソファに横になって部屋情報の収集を始める。心配した友人から、日本人のご家族で、しばらく旅行に出ている家があるので、部屋を借りられるかもしれないと連絡があった。子供の多いご家庭で、泊まりがけでキャンプに行っているのだそうだ。「『星覚さん』と連絡を取ってみて」と言われて、変わったお名前だと思って電話をした。すると、夕方ごろに帰宅するので家を見に来てくださいと言う。住所は私の語学学校の近くで、プレンツラウアーベルクの給水塔があるあたりだった。

夕方、住所を頼りにお宅にうかがうと、紺色の作務衣を着た男性が出迎えてくれた。会うまで私も良く分かっていなかったのだが、星覚さんはなんとベルリンで活動している禅宗の僧侶だったのだ。

自分の今の状況を説明すると、星覚さんは座禅でも組んでいるみたいに時折目を瞑りながら、静かに話を聞いていたが、やがて部屋を案内してくれた。二世帯の家族で広いアパートを借りており、しばらくはどこかの部屋が空くので、いつまででも泊まって行って良いと言う。ただし、明後日まで、また別の家族が泊まりに来るので、少々賑やかになるとのこと。ここは入れ替わり立ち替わり、誰かが泊まりに来ている、ベルリンの「リアル駆け込み寺」だった。「いつから来ますか?」と聞かれ、「考えてまた連絡します」と答えた。

語学学校に行ってから、シェーネベルクの家に帰ると、板垣さんが焼きおにぎりの夕食を出してくれた。シャワーを浴びてまたソファで寝た。

7/3(水)
垣さんには「何日でもどうぞ」と言われてはいるが、自宅で仕事をしている彼女の家のソファに、これ以上泊まるのは忍びなかったし、正直ちょっと体が痛かった。星覚さんの家にすぐに行っても良かったが、ほとほと疲れていたので、綺麗な部屋で一人になってゆっくり休みたかった。ネットで探して、2泊だけホテルに泊まることに決めた。

シャーロッテンブルクのクーダム沿いに比較的安い個室を発見したので、予約。板垣さんにお礼を言ってすぐにホテルに向かった。

チェックインの後に案内されたシングルルームは、素晴らしい眺望のバルコニー付きだったが、クーダムの大通り沿いで車の行き交う音が耳についた。フロントに言って通りの反対側の部屋に替えてもらったのだが、ここにはカーテンがなく、朝日が眩しいかもしれないと言う。おまけに、このホテルには、各部屋にオペラのシーンの舞台写真が飾られていたのだが、交換された部屋には、「皇帝ネロ」と題された、槍で突かれ、流血している俳優の写真が壁一面に掲げられていた。「何これ」と笑いはしたが、疲れている身には流血写真は不気味で、休みたくてホテルに泊まるのに、と悔しい思いがした。諦めてとりあえず昼寝しようとするが、眠れない。

夜、月曜日に会った映画監督Marco Wilmsのドキュメンタリー映画が上映されるというので、会場はWeißenseeで少し遠かったが、見に行く。『Ein Traum in Erdbeerfolie』というタイトルで、2009年の作品。これが素晴らしかった。

実はMarcoは、若い頃東ベルリンでファッションモデルをやっていたのである。1989年に壁が崩壊するまでの東ベルリンには独自のファッションシーンがあって、エネルギーに溢れた若者たちが監視国家の目を逃れながら、ものすごく実験的なファッションに身をやつして頻繁にショーを行なっていた。東ベルリンのファッションの担い手たちは雑誌「Vogue」などにも紹介され大変有名になったが、壁崩壊の後、ばらばらになり、ある者はクロイツベルクで人知れずパンクな美容師をしていたり、ある者は海外に渡って菜園を営みながらヒッピー的な生活をしていたり、ともかくも人々から忘れられてしまった。映画の中では、Marcoが昔の仲間たちをベルリンに呼び戻し、現代の若者の手を借りて、Mitteにある自分のアパートを会場に、もう一度当時の服を再現したファッションショーを行う。私も先日内見に行ったMarcoのアパートに、大勢の人が詰め掛けて、ショーを見に来ていた。80年代当時と同じビニールのシャワーカーテンを使って創られた、SF映画に出て来そうな見事なドレスがお披露目されたところで、映画は終わる。

80年代に行われていた、東ベルリンのファッションショーの会場の一つに、Hotel Oderbergerのダンスホールがあった。そこは今ではプールとして使われている。私はこの夏、語学学校の授業をHotel Oderbergerの地下の会議室で受けていた(語学学校にはクーラーがなかったので)。私がよく知っている場所は、東ベルリンの若者たちの青春の思い出の跡地だったのだ。壁が崩壊したことで、どれだけ風景が変わったのだろう。Hotel Oderbergerは、今では資本主義的にも成功していそうなお洒落なホテルだ。Marcoとその仲間たちは、まるで何事もなかったかのような澄まし顔で、綺麗に変わって行くベルリンの街並みに、この映画で爪痕を残そうとしたわけだ。

7/4(木)

 

イツの夏は日の出が早い。カーテンのないホテルの部屋に燦々と朝日が差し込んできたのは、午前4時だったか、5時だったか。

もちろん、今日もヘンリエッテの大家から部屋の貸し出し許可の連絡はない。

「住む家がない」とかいう、生活上の困難が生じている時に、「良い映画を見る」とかいう一見生活に関係のなさそうな行為が、どれだけ精神衛生上、効き目があるかを実感していた。住まいを転々とする中で自尊心が削られているところに、良い映画を見ると、やっと他人から丁重に扱ってもらったような安心感があるのである。困窮している時ほど、芸術の存在はありがたいのだ。芸術をリッチで生活に余裕がある人のみが楽しめる嗜好品にしてはならないと思う。

昔読んだスーザン・ソンタグのエッセイで、紛争真っ只中のサラエボに派遣されたスーザン・ソンタグがベケットの『ゴドーを待ちながら』を上演した、という内容のものがあった。読んだ当時は、「銃撃線の真っ只中で、不条理演劇? 見たい人がいるのか?」と首を傾げたけれど、上演はサラエボの市民たちに大人気で、連日多くの人が訪れたという。今なら人が来た理由がちょっと分かる。

しかしまあ、サラエボの市民と自分を引き比べるのは余りに図々しい。この日なんか、私はホテルの最上階のレストランで朝食ビュッフェを食べている。でも、ちっとも味がしなかった。普段は嫌いじゃないドイツの硬いパンに、気が滅入る。
スマホで、このホテルのダブルルームの値段はいくらだったか調べると、シングルと10ユーロぐらいしか違わない。ダブルルームなら、騒音もなく、カーテンもちゃんと付いている部屋があるはず。受付で「10ユーロ多く出すからダブルルームに替えてくれ」と言ったら、14時に部屋を替えてくれると言われた。

確かホテルの近くに、牛丼やうどんが食べられる日本食レストランがあったと思い出して行ってみた。乾麺を茹でただけのうどんの味に涙が出そう。帰り際にクーダム沿いのベンチでぼうっとしていたら、服に真っ赤なてんとう虫がとまった。確か、てんとう虫は言い伝えではラッキーチャーム。思わず「安心して眠れるお家をください」と祈る。てんとう虫はもちろん無言でずんずん歩いて、どこかに行ってしまった。

ホテルの部屋に帰り着くと、ダブルルームに替えてくれるという。鍵をもらって開けると、これぞイメージ通りの「ホテルの部屋」である。ベッドが大きく、静かで、勿論カーテンも付いている。こんなつまらない願いを叶えるために、どれだけ手間取ったんだろうか。夕方までごろ寝する。

夜は学校に行った。疲れていても、ドイツ語を勉強できるのは楽しい。

フリードリヒシュトラーセ駅のアジア・インビスで、トムヤムラーメンを食べてホテルに帰る。

7/5(金)
局、それなりにお金を出してダブルルームに泊まっても、チェックアウトの時間があるから、それほど遅くまでは寝ていられないのだった。星覚さんに電話して、「今日からお世話になりたい」と言うと、一日出かけているので、5時に来てくださいと言われる。カフェでこの連載の日記を書いて時間を潰した。ベルリンのカフェは何時間いても文句を言われないのが良いところだが、それでもずっと外にいなくてはならないのはストレスだった。

5時にプレンツラウアーベルクの星覚さんの家に行くと、二歳と五歳の元気なお子さんが二人、転げ回って遊んでいる!「すみませんけど、夕食の支度を手伝ってくれませんか」と頼まれ、手伝いに来ていた星覚さんのご友人と一緒に、いきなり味噌汁などを作ることに。卵があったので、野菜と炒めて卵焼きにしようとしたら、「うわあ、ご馳走ですね。子供たちで取り合いになるかも!」と言われる。卵焼きがご馳走?

ご飯が炊けたので子供達を食卓につかせたところで、おもむろにパウチされた白いプリントが配られた。その場の全員が、手を合わせたかと思うと、そこに書かれた「五観の偈(ごかんのげ)」という文章をお経のように読み始めたので面食らった。子供たちも実に流暢に諳んじる。

「一には、功の多少を計り彼の来生を量る……」

これは禅寺で食前に唱えられる言葉で、日々の食事に感謝し、仏の道を実践することを誓う内容らしかったが、この時は分からないから、ひたすら面食らった。「いただきます」の声で、子供達が勢いよくご飯を食べ始める。卵焼きはやはり、取り合いに。禅宗では食事も大事な修行なのだそうで、野菜の切れ端一つも大事に感謝しながらいただく。ご飯を食べ終わったお椀にはお茶を注いで、お椀を洗うように綺麗にしてから飲むのが習わしなのだという。ほんの少し残ったお茶っ葉も、味噌汁も、くたびれた人参のしっぽも、捨てずに明日の為に取っておく。ベルリンでこんな禅の修行僧「雲水」の生活をしている人がいるだなんて。

星覚さんの座禅の講習会はベルリンで大人気らしい。もちろんエキゾチシズムもあるのだが、エコロジーに関心が高く、物を無駄にするのが大嫌いなドイツ人にとって、禅的思想は馴染みやすいものなのかもしれない。ひょっとしたら、今の日本人よりも。

星覚さんたちご一家は9時頃にはもう寝てしまった。私もスマホなんかいじってから、早めに眠った。

7/6(土)
覚さんは子供たちを連れてキャンプに行くらしく、しばらくこの家に一人で寝泊まりすることに。旅行支度をしている所に「お父さん、遊んで」とねだる。「悠子さん、彼らにYouTubeを見せてあげてくれませんか?」と頼まれた。「えっ、私のパソコンで子供たちにYouTubeを?」。禅的生活でYouTubeはOKなのか戸惑ったが、「はい、緊急事態なんで!」とのことで、YouTubeで『レゴ ニンジャゴー』というアニメを見せる。セリフは英語だったが、子供達は時々英語を口ずさみながら夢中で見ている。お昼過ぎにキャンプに出かける一同を見送った。

午後、美容院に髪を切りに行く。夕方、合気道の道場で、「良い日本酒を頂いたから、食べ物を持ち寄って集まりましょう」という会があったので、顔を出す。昌世さんの愛息、五歳の悠真くんが「うちにBesuchen(訪問)しませんか?」と道場生たちに声をかけてナンパしている。あまりに可愛いので「Besuchenしたい」と私が言ったら、お宅にお招きいただけた。ビールを飲みながら今の境遇について昌世さんやオメルに話したり、悠真くんと「おさるのジョージ」のビデオを見たりして楽しい時間を過ごす。

7/7(日)
候している星覚さんのお宅の食事は、基本的には質素なのだが、お米はデュッセルドルフから取り寄せた高品質の白米で、味噌汁はなんと自家製。「うちにある食材は何でも使ってください」と言われていたので、お米を炊いてお味噌汁を作る。禅寺の門下生になったつもりで、ゆっくり味わって食べた。洗い物をし、お風呂に入り、洗濯やゴミ捨てをする。
何気なく本棚を眺めていたら、星覚さん、禅を紹介する著書を何冊も出版されていた。写真付きで座禅の組み方を解説されていたり、英語やフランス語の翻訳版も並んでいるので驚く。「モテたかったので禅の修行を始めたが、気がついたら動機は忘れて全国行脚の旅をしたりと、のめりこんでいた」というエピソードにずっこけた。

映画研究者の渋谷哲也先生と、昼食の約束をしていたので、コルヴィッツ広場のフランス料理レストランに行く。

この頃から、ヘンリエッテの家の居住許可を待つのはもう諦めて、インターネットで別の家を探し始めた。この日の午後、早速クロイツベルクの家を一件、内見に。居酒屋の固まっているオラーニエン広場のど真ん中の住所なので危惧していたが、ドイツ人の若者の案内でいざ見せてもらうと、やっぱり安全そうな気がしなかった。綺麗に整えられた部屋なのだが、なんだかガランとしているし、夜は騒がしそうなのだ。これだけ苦労したのだから、ちゃんと気に入った家に住みたいと思って、この家は断った。

禅的生活

7/8(月)
本の友人から、九月から私の借りている家が空きそうだから住めるよ、とメールがある。こないだ服に留まったてんとう虫が家を見つけてきてくれたのだろうか? そうしたら、とりあえず八月末までいられる家を探せば良いというわけか。
図書館に行って少し仕事の原稿を書こうとするが、結局ずっとアパート情報を眺めていた。星覚さんの家で発見した高級な出汁パックを使って、親子丼を作って食べた。

7/9(火)
の日も一件、アパートの内見に行く。Hallesches Torという駅の近くの、公団住宅のような建物の高層階の一室。貸主は今、ベルリンにはおらず、隣人らしきヒジャブをつけた女性が案内してくれた。部屋を見たが、ガランとしていて物寂しい。外から盛大に工事の音が聞こえてくる。この条件にしては家賃が高すぎると感じた。お礼を言って部屋を出てから、速攻で貸主に断りのメールを入れてしまった。

語学学校の近くに、シネフィル御用達のレンタルビデオ屋があると聞いたので、見に行く。貸出カードを作った。ヴェルナー・シュレーター監督の『薔薇の王国』『マリア・マリブランの死』のDVDを借りる。

7/10(水)
気道に行く。合気道の稽古の後は、いつも日本茶を飲む習慣がある。お茶を飲みながら、合気道仲間の昌世さんに「幾つか内見に行っているが、ちっとも決められない、今日も一件見に行くのだが不安だ」と話したら、「いい部屋だったら決めちゃえ!」と言われた。

この日の内見先は、ノイケルンのKarl-Marx Straße駅の近く。いつも仲良くしてくれているクリストフとマヤのアパートがある駅で、私は2016年に初めてベルリンに来た時に、彼らの家に二週間泊めてもらった。人に話すと、一般的でないと言われるが、私にとっての「ベルリン」のイメージはこの界隈だ。駅前の大通り沿いは、トルコスーパーやケバブショップなどが立ち並ぶ。裏通りには、タイムスリップしたかのような古い民家や馬小屋の面影が残っている一角がある。

ここは18世紀にボヘミア移民が作った村でRixdorfと呼ばれる地域だ。無農薬食材のスーパーや個性的なカフェやライブハウスもたくさんある。私はベルリンに住みだしてからも、心優しいクリストフとマヤに会うために頻繁にこの地域に訪れていた。

ネットで見つけた、このRixdorfのアパートは、クリストフとマヤの家から歩いて五分の所にあった。住所の呼び鈴を押し、アパートの5階まで上って行くと、ドアを開けて出迎えてくれたのは、パッと輝くような曇りない笑顔の若者。部屋を見せてもらうと、気持ちよく片付けられており、中庭に面していて静かだ。何より、このJacobという多分まだ20代の貸主が、見るからに親切そうである。キッチンには両親の若い頃の写真や、家族の集合写真が飾ってあったりして、眩しいぐらいに真っ当な「お育ち」を感じさせる。

意を決して「ここを借りたい」と言うと、「うわあ、本当に? 嬉しい、こんなにスムーズに話が運ぶなんて!」と反応も素直。Jacobは、夏の旅行に出かけるそうで、この家は8月末まで借りられるとのことだった。

念のために「大家に許可は取ってあるのか」とか「私のビザはもうすぐ切れてしまうから七月末に延長する予定なんだけど、それでも借りられる?」とか尋ねたが、全て問題はないらしい。私こそ、こんなにスムーズに話が進むなんて、本当にありがたいというか、大げさでなく地獄に仏という感じである。キラキラ笑顔のJacobが天使に見える。

ヘンリエッテに、別のアパートを借りようと思うとメールすると、「こちらは、大家の会社に毎日電話をしているが、『明日返事をする』の一点張りである。部屋が見つかったのなら良かった、もちろん悠子の好きなようにして良い!」とのこと。

家が決まった……家が決まった……と道々呟きながら、地下鉄で帰る。星覚さんのご家族が、キャンプから帰ってきていたので、一緒に夕食をいただく。上機嫌で、夜は子供たちに絵本を読んであげたりした。

7/11(木)
の日の朝、星覚さんのご家族は日本に一時帰国をすることになっていた。星覚さんが荷造りをしている間に、また子供達と遊んであげてから、お見送りをする。数日一緒に過ごしただけだが、エネルギッシュな子供達といた日々は、特別に濃密なものだった。私のことなんか速攻忘れてもいいから、それぞれの子が楽しく充実した子供時代を送ってほしいと願わずにはいられない! Jacobの家に行って、簡単な契約の手続きをする。夜は語学学校へ行った。

7/12(金)
シュレーター監督の『薔薇の王国』のDVDを図書館で、『マリア・マリブランの死』をネットカフェで見終わって、レンタルショップに返した。二枚のDVDを間違って逆のケースに入れていたらしい。冗談で「次に間違ったら殴っちゃうぞ!」と受付の店員に英語で言われた。もう一人の店員に「こいつアホだから気にすんな。逆に殴ったれ」と取りなされた。私は英語で咄嗟にジョークを切り返せなくて、ハハと笑っただけだが、帰り道になんだか腹が立ってきた。DVDのケース間違ってたぐらいで、背の高いドイツ人の男性に冗談でも殴るとか言われたら、普通に怖い。気の利いた返事なんかできないよ。
怒りが一度湧いてきたら、色々な記臆が連鎖して、止まらなくなった。ヘンリエッテも、一体なんなんだ。人を宿無しにしておいて、ろくに謝りもしないのは、あれか、ドイツ風のコミュニケーションか。こっちは外国から他に借り手を探すのも難しいだろうと思って、大家の返事を待っていてあげたんだよ!

急に怒りが湧いてくるのも、おかしなことだ。きっと新しい家が見つかったことで、やっとホッとして、怒りを感じられる心の余裕が出てきたんだと思う。本当に疲れていると、人は怒る元気すらなくなってしまうのだろう。(これも今の日本の状況みたいである。)

7/13(土)
ルヴィッツ広場のマーケットに行って立派なサーモンの切り身を買った。カフェでこの日記の原稿を書く。夜、ポツダム広場の映画館Arsenalでファスビンダーの『ローラ』のフィルム上映を行うというので見に行った。『ローラ』を見るのは3回目だったけれど、フィルムの色の鮮やかさに驚愕した。

「なるべく早めに引っ越したい」とJacobに言ったら、「じゃあ僕はガールフレンドの家に行くよ」と15日から部屋を貸してもらえることになった。フレキシブルに予定を変更してくれるのも、ありがたすぎて、若者の親切に涙が出そう。

7/14(日)
うとう、星覚さんの家から引っ越しをする日。禅的生活に近づけたかは分からないが、手作りの素晴らしいお味噌と米を毎日食べられて、ありがたかった。

仏棚の水も、星覚さんに言われた通りに毎日替えていたが、仏様のお水って、宗教的には何に向かって捧げてることになるだろう? 郷に入れば郷に従えの精神で、ただ黙って替えていた。「毎日替えてくださると・・・良いことがあるかもしれません。」と星覚さんがザックリしたことを言っていた。「そのうち全て良い方向に行きますよ」なんて根拠ない慰めみたいな言葉も、お坊さんが言うと妙な説得力がある。

Jacobの家の鍵をもらってから、ヘンリエッテの家に置いてある荷物を取りに行く。今回の引っ越しは田中奈緒子さんに手伝ってもらった。クロイツベルクのイタリアンレストランで食事をしてから、ヘンリエッテの友達に部屋の鍵を開けてもらって荷物をタクシーで運んだ。

華奢な体の奈緒子さんだが、瞬く間に、私の荷物を5階の部屋まで全て運び上げてしまった。おまけに素敵なお土産をくれた。オーバーハウゼンのトーマスが書いてくれた、私と仕事をしたことを証明する書類だ。ビザの延長申請のためには大変重要なものだった。

ボヘミアンの村へ

7/15(月)
の日で、ベルリンに来てちょうど一年となる。運び込んだ荷物を段ボールから出して部屋を整えた。月曜日なのに、頭が混乱していたのか、間違えて学校に行ってしまった。悔しくて、通り道のレストランで白ワインを飲んだ。失敗したけれど、しみじみ幸せだ。家があるってすごい。

Rixdorfは、フス派の新教徒たちが、迫害を逃れて移り住んできた村である。当時のプロイセン王、ヴィルヘルム一世は、彼らの居住を認め、土地と牛を与えた。それで新しい家のすぐ近くにはヴィルヘルム一世の銅像がある。ボヘミア地方出身の偉人で、教育学の先駆者である学者、コメニウスを記念する「コメニウス公園」もある。コメニウスは、カトリックとプロテスタントが対立し、暴力や虐殺事件が絶えない当時のボヘミアの状況に心を痛め、幼児教育の必要性を説いたのである。
私は彷徨えるボヘミア移民たちの魂に助けられて、この長閑で美しいRixdorfにやって来られたのかもしれないなあと本気で思った。コメニウス公園には、リンゴや洋梨やプラムがたわわに実る木がある。魚の泳ぐ池があり、薔薇が咲いている。聖書の中の楽園はこんな感じだろうか。

* * *

この後、どうなったか。9月から住めるかもしれないと言われていた日本人の友人の家には結局、移れなくなる。これもベルリンの住宅問題に深く関係がある話で、地代が高騰する中、大家が家賃を値上げするために、サブレット(又貸し)を許可しないことに決めたらしい。友人は20年も借りたベルリンの家を引き払うことになった。私は禅僧になったような気持ちでこの厳しい報せも粛々と受け入れ、またインターネットで家を探した。

今は、ミッテのアパートに住んでいる。親切な貸主に出会えて、人気の地域の一人暮らしの部屋を、お手頃価格で借りることができた。なんと70人の応募があった中から奇跡的に選ばれたらしい。天井が高く、壁はピンク色、アンティークの家具もあって、少女の頃にファッション雑誌で見たような、ロマンチックな「ヨーロッパのアパートメント」である。貸主は芸術大学の先生で、寛大で知的で趣味が良く、私の誕生日に紅い手編みのルームソックスをプレゼントしてくれた。家探しに苦労していた所から突然の急展開、ものすごい境遇の落差に、未だ唖然としている。

ビザも無事に更新できた。頑張っても一年取れるか取れないかだろうなと思っていたが、たまたま親切な担当官に当たって、三年の滞在許可が降りた。運が良かったと思うけれど、今まで運が悪いことも続いたから、どっちなのか良く分からない。

住まいを何度も引っ越して、住んだ界隈を散歩してなるべく把握しようと奮闘していたら、瞬く間に一年が過ぎてしまった。ようやくこれから演劇の活動でもしようかというところで、日記の連載は一旦終了。ほとんど東京にしか住んだことがなかった私にとって、この一年は驚きの連続だった。東京の生活とどう違うか、もっと分析しようと思っていたけれど、ベルリンの暮らしの内側に入り込んでいくと、東京がどんな都市だったかは忘れて、新しい経験の眩しさに目を奪われてしまう。

今、ベルリンは秋口で、晴れたり曇ったり雨が降ったり全く天気が安定しない。プラタナスの並木が強風に揺れる。棘の生えたその実が石畳の上に散らばっている。灰色雲が空をものすごい速さで移動している。またあの寒い寒い冬がやって来る。冬を越して春になったら、東京で少し仕事があるから、しばらく戻る予定だ。2020年の東京、戻るのが空恐ろしいような、楽しみなような微妙な気持ちだ。きっととっても奇妙な外国みたいに見えてくるんだろう。

千木良悠子

 

連載「東京狩猟日記」「ベルリン狩猟日記」は今回の更新で最終回となります。
千木良さんのベルリンでの日々はこれからもまだまだ続きます。
その先に見出されるものとは何なのでしょうか。
千木良さんの「狩猟」の収穫は、どんなかたちで私たちの目の前に現れるのでしょうか。
もしくは、それを糧にまた新たな旅が始まるのでしょうか。
その日まで、しばしの間、私たちは静かにその報告をお待ちしたいと思っています。

千木良さん、2年間本当にお疲れ様でした。(編集T)

 

今回の連載で初めて千木良悠子さんに出会った皆様、

ぜひ本連載を最初からお楽しみいただければ幸いです。

東京狩猟日記 第一回 http://www.kaminotane.com/2017/08/01/91/

ベルリン狩猟日記 第一回 http://www.kaminotane.com/2018/09/10/3415/